533「イエスは神と人間に分割できる!」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

新約聖書が成立する325年のニカイア公会議までの、初期キリスト教会の歴史を考えると、出てくるのがグノーシス主義、グノーシス派ですね。グノーシス派とは何かというと、キリスト教関連でいうと、分割論にいきつくのです。イエスは人間であり神の養子であったと考える養子説、イエスは神そのものであり人間の姿をして現れたと考える仮現論、そしてもう一つの考えが分割論だったのです。イエスは、一方では人間であった、一方では神であったと考えたのです。
グノーシス派の教義によれば、神はイエスの洗礼の時にイエスに乗り移った。そして、イエスに神の使命を果たす力を与えた。それでイエスは奇跡を行うことができた。神の教えを説くことができた。しかし、神はイエスの死の直前に、イエスから離脱した。その結果、イエスは磔刑で死ぬことになった。
マルコ福音書15章の「イエスの死」の34節で、イエスが「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで死んだのは、神はイエスから離脱したからだというわけです。
しかし、神はイエスの神への信仰に報いるために、イエスを死から甦らせ、イエスを通じて人間を救済に導く福音を告げ知らせた。その福音の中身は神秘に満ちた真実の知恵なのだというような考え方でした。
このことは、ヘブライ人への手紙2-9の
*・・・神の恵みによって、すべての人にために死を味わわれたのです。
注に異文として、「神の恵みによって」の異文として「神なしに」とあります。
「神の恵みによって」イエスのは死んだのか、あるいは「神なしに」イエスは死んだのか。どっちやねんというわけです。イエスの死は、神をなくして、神から離れて死ぬということは、神はイエスの死の直前に、イエスから離脱した。その結果、イエスは磔刑で死ぬことになった、という説明になるのです。

ゆるゆるその2
養子論、仮現論、分割論に反対する、いわゆる正統派は、これらの考え方を退けようとしたのです。そのことが、よく分かるのがヨハネの第1の手紙4章の「霊を見分ける」ですね。2~3節
岩波新約聖書改訂新版による
*・・イエス・キリストが肉体において到来したことを告白する霊はすべて神から出たものである。イエスを無にする霊はすべて神から出たものではない。これは反キリストの霊である。
注に、数の上では「告白しない霊」と読む写本が圧倒的に多い箇所。「無にする霊」は古代教会の教父(エレイナイオス、オリゲネス、アレクサンドリアのクレメンス、テルトゥリアヌス)の証言(ただし間接証言)に見られる読み・・・独特なキリスト論を指す表現で、これが前者のような定型表現に修正されたと見る方が、逆の場合に比べ、より蓋然性が大きい。
どういうことかと言えば、イエスが実際に肉体となってきたと認める者は正統派だ。つまりイエスは神ではなくて人間として生まれた。仮現論は誤りだ。そして、イエスを無にする、つまり神がイエスの死の直前に、イエスから離脱したというような分割論を唱えるような者は、反キリストだというわけです。
教会共同訳は、「イエスを告白しない霊」と訳しています。多数派の写本に準拠しているわけですが、もう一つその意味がよく分かりません。どちらが、オリジナルなのか分かりませんが、ヨハネの第1の手紙を書いた人物が、反分割論者だったかどうかによりますね。教会共同訳も注に、異文をのせておかなかったのは、どうしてなのでしょうか。

ゆるゆるその3
正統派の考えというのは、イエスは2つの存在ではなく、一つの存在である。同時に神であり人である存在なのだというものです。イエスは人間ではない、イエスは神ではない、イエスはある時は人間であり、ある時は神であるというのではない。イエスは生まれたときから死ぬ時まで、人間であり神であった、というわけですが、うーん、実際のところ、どうなんだろうかというのが私の考えですね。日本人的な考えでいけば、養子論でも仮現論でも分割論でも一体論でも、どれでもいいですよ。どの考え方でもOKにすれば良いのじゃない。自分が気に入る考えでいけば良いのじゃない、ということになるのではないでしょうか。