532「イエスは神である、人間ではない!」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

イエスは神である。初期キリスト教徒たちの中にはこのように考えた信徒たちがいました。この考え方を仮現論といいます。「~のように見える」という意味です。イエスは、神以外の何物でもない。ただ、人間のように見えただけだ。神が仮の肉体を持って地上に現れて、行動し、最後には死んだかのように見せたのだ、というわけです。
このように考えた有名人がマルキオンでした。なぜ有名かというと、初期正統派の教会教父たちが、マルキオン批判の書物を書き残しているからです。教会教父の一人、テルトリアヌスが「マルキオン反駁」という書物でマルキオンの考えを書き、その批判を書いています。その書物によれば、マルキオンは最初に新約聖書を編集しようとした人物でもあり、パウロこそが唯一真正なイエスの弟子だと考えたのです。マルキオンが編集した新約聖書はルカ福音書、使徒行伝、パウロ書簡だけが選ばれていました。
マルキオンは、ユダヤ教の律法とイエスの福音は全く異なるものであり、人が神によって義とされるのはイエスに対する信仰によるのであって、ユダヤ教の律法を守ることではないと主張しました。旧約聖書の神と新約聖書の神は別の神である。ユダヤの神より偉大な神が、人々を救うためにイエスとなってこの世に現れたのだというわけです。

ゆるゆるその2
テルトリアヌスのような初期正統派は、イエスは神でありながら人間だったと主張したのです。イエスは実際に死んだ、そして肉体を持ったまま甦った。そして実際に肉体を持ったまま天に昇り、栄光に包まれて再臨する時を、肉体を持ったまま待ち続けていると主張したのです。
岩波新約聖書改訂新版佐藤訳の解説には、ルカ福音書22-43~44に関しては、ルカ福音書成立以降の挿入部分との注があります。「オリーブ山の祈り」として有名箇所。
43~44節
*すると、天から一人の御使いが現れ、彼を力づけた。そこで彼は死にもの狂いになり、いっそう熱烈に祈るのであった。すると彼の汗は、地に落ちる血の塊のごとくなった。
注に、この部分は、定本でも示されているように、ルカ福音書成立以後の挿入部分。フランシスコ会訳が、「一般の聖書学者はその正当性を認めている」と注に記しているのは不適。とあります。
では、なぜ挿入部分がルカ福音書に挿入されたのかと言えば、仮現論を否定する必要性が生じたのです。ルカ福音書の受難物語を読めばわかりますが、ルカはイエスを静謐で自制をもって苦難の状況を受け入れていることがわかります。イエスの苦悩に関しては、触れないのがルカ福音書の特徴なのです。
イエスは、普通の人間と同様に苦悩したことがわかる事が必要になって、わざわざ挿入部分をつくったということです。イエスが人間のように見えたのではなくて、実際に人間であったことがよく分かる箇所が必要だったのです。

ゆるゆるその3
仮現論がらみで、ルカ福音書にを読めば読むほど、イエスの死に関して、ルカはいわゆる贖罪説を説いていないことを実感します。私はイエスの死は復活栄光のためだという、復活栄光論者です。使徒言行録の中で使徒たちが行った説教、とりわけ2章、3章、10章のペテロの説教では、イエスの死は人間の贖罪をもたらしたと述べていはいません。イエスの死は、人々に自分の罪を自覚させるものだった。なぜならばイエスは罪なくして死んだのだから。ひとたび自らの罪を自覚すれば、人々は悔い改めることができる。悔い改めれば、神はその罪を許すのだ、と語らせています。ルカは、イエスの死は、人々を悔い改めさせるものだと言っているのです。

ゆるゆるその4
蛇足ですが、ルカ福音書と使徒言行録はいずれもルカが書いていて、もとは一つの書でありました。福音書24-50~52の「イエスの昇天」では、復活後すぐのことで「エマオの顕現」直後のことだと書かれています。ところが、言行録1章の「イエスの昇天」では、復活の40日後だと書かれています。どっちがほんまやねん、というわけです。これは、イエスの昇天が現実の肉体によるものだということを強調したかった、後の写本作成者が福音書の24節に書き換えた、あるいは書き加えたということでしょう。