531「キリストは神の養子か?」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

聖書は無謬か?ということを考える際に、大切なことは何かといえば、改竄されていないのか?オリジナルはどれか?写本には間違いないか?ということが必要です。協会共同訳聖書などのように、注で異本では「〇〇」というように書かれていれば、改竄問題、オリジナル問題などを考慮して読むことができます。注がない場合には要注意です。

新約聖書が成立するまでの、初期キリスト教会には多様な宗派が存在しました。有名な宗派に「キリスト養子論」を唱えたエビオン派がありました。イエスは神ではなくて、血と肉を備えた人間であり、それを神が、イエスの洗礼の際に神の子として「養子」にしたのだという論です。厳格な一神教徒で神は唯一だと信じるならば、イエス自身は神ではない。親であるヨセフとマリアの性的結合によって生まれた。マルコ福音書1-9~11「イエス、洗礼を受ける」によれば、イエスが洗礼を受けた際に、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、天から聞こえた。#直訳「私はあなたを喜ぶ」とあります。この時に、神は自らの養子としたのだというわけです。同様の記述はルカ福音書3-21~22にあります。ルカ福音書には受胎告知、処女降誕が書かれていて、すでに神の子として生まれてきたはずなのに、さらに洗礼の際に再確認されるのはおかしいといえば、おかしいのです。これはマルコ福音書をもとにして書いているからこうなったわけですね。
ルカ福音書2-33に「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いた」とあります。もしも、イエスが処女から生まれたのであれば、ヨセフをイエスの父と呼ぶとはどういうことか、ヨセフがイエスの父ならば、イエスは神の養子ではないかというわけです。同じく、ルカ福音書2-41~52の「神殿の少年イエス」で12歳のイエスが神殿に残っ教師たちに質問したことが書かれています。両親はイエスを見て驚き、「お父さんも私も心配して捜していた」とあります。イエスは、49節で、「・・・私が自分の父の家にいるはずだということを・・・」別訳「父に属する者たちの間に」「父の仕事に携わっている」とあります。自分の父というのは神のことですから、両親とは別に父がいて、それは養父だということになりますね。

ゆるゆるその2
ルカは福音書と使徒言行録を書いています。その言行録10-37~38に
*あなたがたは、ヨハネが洗礼を宣べ伝えたあとに、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事をご存知でしょう。つまり、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。・・・
ルカは、イエスはヨハネの洗礼を受けてキリストになったと言っています。
同じく2-31~36では、
*36節「・・・あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
ルカは、ペテロの説教でイエスが復活の際に主としメシアにしたと書いています。
福音著者ルカは、神の霊感受けて無謬の福音書と言行録を書いたとするならば、イエスを「主」と言うルカの理解は、このようにならざるを得ない。
ルカ福音書2-11によれば、イエスは主として生まれた。しかし、10-1によれば、イエスは主として生きているうちからよばれていた。言行録2-36によれば、イエスは復活の際に主となった。ということになるのです。養子説は一理あるのです。

ゆるゆるその3
さて、この養子論が正統とされず、異端とされたわけですが、どうして異端とされた理由には諸説あります。私が考えるに、ユダヤ教イエス派にとどまったからですね。この宗派の論敵が書いたものによれば、ユダヤの律法を守ることを重視し、男は割礼すべきことを信徒に要求したとあります。割礼するのはユダヤ教徒で、割礼しないのがキリスト教徒だという主張が多数派になったのです。初期キリスト教徒たちにとって、キリスト教の魅力の一つが、割礼をしなくても良いことだったのです。それにユダヤ教徒ほどには、律法にうるさくないというのも魅力だったのです。