523「携挙のイメージ化映画とは」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

キリスト教プロテスタント福音派のイメージで私がすぐに浮かべるイメージが携挙ですね。パウロの予言と言おうか妄想と言おうか悩むのですが、テサロニケの信徒への手紙1第4章第15-18節にパウロはこのように書いています。
*主の言葉によって言います。主が来られる時まで生き残る私たちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降ってこられます。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し、続いて生き残っている私たちが、彼らと共に引き上げられ、空中で主に出会います。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、これらの言葉をもって慰め合いなさい。
つまり、パウロたちが生きている間に、イエス・キリストが天からやってきて空中に引き上げられて出会うことができると、パウロは予言しているのです。この予言のことを携挙の予言というのです。この予言ははずれたのですが、ヨハネの黙示録、これもヨハネによる空想と妄想と予言の書ですが、黙示録のもろもろの予言と結び付けられて、この携挙が起きると携挙から取り残される人々が出てくる。取り残された人々の世界には、反キリストが出てきて「艱難時代」が始まるという考え方が生まれてきたのです。
取り残された人々の世界という意味で使われる言葉にレフトビハンドという言葉があります。これは携挙から「取り残された」という意味で使われるようになったのです。
天国や煉獄や地獄のイメージは誰によって決定づけられたというと、ダンテですね。ダンテの「神曲」によって決定づけられたのです。世界文学全集には必ず「神曲」がはいっています。さて、携挙とそれに伴うレフトビハンドですが、アメリカのプロテスタント福音派に限らず日本のプロテスタント福音派の、携挙ならびにレフトビハンドのイメージ化を決定づけたは何かといえば、やはり小説なのです。小説と映画と言ったほうが良いですね。ヒットした小説は映画化されますから。

ゆるゆるその2
プロテスタント福音派の、携挙ならびにレフトビハンドのイメージ化を決定づけたは何かといえば、やはり小説『レフトビハインド』( Left Behind )なのです。ティム・ラヘイ、ジェリー・ジェンキンズ(英語版)の共同著作によるアメリカの小説。およびその続編からなるシリーズ。1995年に最初の小説が発売された。
公式サイトによれば全米で6,500万部を売り上げたベストセラーである。表題は「後に残される、取り残される、置いていかれる、おいてきぼりにされる」といった意味。
時は近未来、最後の審判が迫り「ヨハネの黙示録」の預言が実現していく世界を描く。「患難前携挙説」の立場をとっており、「携挙」によって信心深い人々や幼い子供が姿を消すところから物語が始まる。
2014年に映画化された『レフトビハインド』を見ました。ニコラス・ケイジ主演のパニック、サスペンス映画ですね。内容はというと、
*その日、全世界で数百万を超す人間が忽然と姿を消した-世界中でライフラインが機能を停止、地上は混乱状態に陥り暴動が勃発する。一方、高度3万フィート上空でも同様に、ジャンボジェットの機内から大量の乗客が、着ていた衣服を残して姿を消してしまう。管制塔との連絡は途絶え、パニックが起きる中、彼らの命を預かるパイロットのレイフォード(ニコラス・ケイジ)は、地上で危機的状況に残された愛娘の身を案じつつ、自らも命を懸けた決断を迫られる…(C)2014 LEFT BEHIND
というような内容で、冒険活劇として面白い映画でした。
小説の方は、次々に続編が書かれ大ヒット、ベストセラーになりました。映画の方は大ヒットせず、続編はつくられていません。
小説の続編はというと、牧師であったブルースは携挙に選ばれなかった。しかしこの事で自らの信仰を見つめ直し、人々にキリストを信じるよう説いていた。一方、妻と息子を携挙で失ったレイフォードはブルースと出会い、信仰に生きるようになる。やがて反抗的であった娘も改心し、それ以外でも様々な人々が集い、信仰に目覚めていった。レイフォードらは来るべき患難時代(トリビュレーション)に備え、クリスチャンからなる集団「トリビュレーション・フォース」を結成する。その後、反キリストそのものである独裁者が現れて患難時代(トリビュレーション)が始まり・・・・
というような内容です。

ゆるゆるその3
この作品は、非キリスト教徒の存在は論外となっていて、話は荒唐無稽ですね。だが、私は映画を見て実に面白かったのです。荒唐無稽だから面白いのです。エンタメとしてみると実に面白いのです。しかし、著者のティム・ラヘイ、ジェリー・ジェンキンズは携挙を信じていて、アメリカの読者たちもフィクションというよりはノンフィクションとして読んでいるように思います。ちょうど、ダンテの「神曲」に描かれているイメージで天国や地獄を現実だと考えてきたように。この小説は、反キリストが登場するように、終末論と結びついています。終末論における反キリストは悪魔であり、敵そのものなのです。そして、悪魔との最後の戦争が始まるというストーリーになっています。つまり第三次世界大戦は反キリスト、悪魔相手の戦争であり、悪魔を倒す正義の味方はアメリカだというストーリーになっているのです。携挙のイメージ化から何が生まれるのかといえば、私は第三次世界大戦が生み出されると思えてならないのです。