520「親ガチャ、人間の運命は公平か?」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

今年は辰年、私の歳になります。それなりに長く生きてきました。親ガチャと言う言葉が定着しましたが、実感しますね。まず、どの時代のどの国のどの地方に生まれてくるのか、そしてどんな親のもとに生まれてくるのか、自分では選べないのですから。マタイ福音書13-18から,マルコ福音書4-13から、ルカ福音書8-11から、「種をまく人のたとえの説明」をイエスが行っています。以前に触れましたが、この例え話ですが、種は人のことであり、蒔いているのは神であるように思えてなりません。
人間の出生に関して著しい不平等をもたらしているのは、神であるように思えてならないのです。ある者は健康な体と高い知能に恵まれ、豊かな上流階級で収入があり、子どもたちを愛する親のもとに生まれてくる。そのおかげで、その子たちには豊かな人間文化を享受する道が開かれており、また自分が好む生活を自分で選ぶ自由もある。そんな一生がおくれるかもしれない。
ところが、ある者は様々な障害を持って生まれ、しかも愛もなければ教養もなく貧しい親のもとで育つかもしれない。親が虐待した結果、親に殺される場合すらあるだろう。親がいない場合のほうがマシな場合だってあるだろう。社会、政治、経済にも責任はあるだろうが、親にも責任はあるだろうが、本人にも責任はあるだろうが、犯罪を犯して、若くして非業の死を迎えることがあるかもしれない。不平等な生まれ方が、そもそもあって良いのだろうかという疑問が生まれます。
霊魂というものが、神から与えられるとするならば、その霊魂は、胎内に宿ったときであるか、それとも生まれ出たときなのか、私は生まれいでたときだと考えていますが、それはさておき、生まれいでたときに新しい霊魂が、神から与えられるとするならば、神は不平等な霊魂を人間に与えているのではないかと思えてならないのです。さらに霊魂と肉体が一体のものであるなら、不平等な肉体を与えたのも神ではないのかということになります。

ゆるゆるその2
私が子供の頃に読んだ、道徳話に、ある親子が物乞いをしている乞食を見て、親が子どもに、「お前もしっかり勉強しないと、あんな乞食になるよ。」というのがあったが、乞食になるならないは、本人の責任だと言うことを教える道徳話でした。
イギリスの道徳話に、ジョン・ブラッドフォードの話というのがあります。彼は、絞首台に引かれていく死刑囚を見て、子どもにこう言います。「神様のお恵みがなければ、私もあのようになっただろう。」つまり、神の恵みの大切さを教える道徳話です。確かにジョン・ブラッドフォードにとっては、神の恵みを実感するときだったかもしれませんが、死刑囚は、神の恵みなんてないことを実感しているかもしれません。
旧統一教会、現在の家庭連合ですが、ジョン・ブラッドフォードの話を悪用していていたのです。キリスト教とは無縁の、因果応報、ご先祖様が過去に蒔いた種が原因で、神の恵みがもたらされないと説いたのです。一種の「生まれ変わり」の教義ですね。先祖供養をしないと不幸になるというという「生まれ変わり」の教義の悪用ですね。
「生まれ変わり」の教義というのは、我々は前世から生き続けているのだ。我々が不幸なのは、過去に蒔いた種を現在の自分が刈り取っているからだ。我々の霊魂は繰り返し生まれたり、生まれ変わったりして、生き続けているのだ。霊魂は不滅なのだ。先祖の霊魂は自分の霊魂であるから、先祖が犯した罪は自分が償わなねばならない。まずやるのは何かといえば、先祖供養であるというようになっていくのです。

ゆるゆるその3
キリスト教、カトリック教会は、「生まれ変わり」の教義はありません。ご先祖様に極悪人がいたとしても、そんなことは子孫にはなんの関係もありませんし、影響はありません。
個々人の生まれが、石の上に蒔かれた種の場合もあれば、茨の中に蒔かれた種である場合もあるのは、現実ですが、受け入れる仕方がないのです。本人の責任ではないのです。責任は神にあるのです。私は、石や茨の中に蒔かれた種ではなかったのです。そういう意味では神の恵みがあったとも言えます。その神の恵みなるものを、どのように生かして、次の世代に伝えて行くのか、次の世代のために何ができるのかということを考えていくことに尽きるのかと思っています。