529「イエスの言葉は憐れみか?怒りか?」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

2月25日は四旬節第2主日B年で、第1朗読は創世記22章の「先祖アブラハムの献げ物」のでした。神は、アブラハムに一人息子イサクを焼き尽くす生贄にせよというのです。そこでアブラハムは焼き尽くそうとした瞬間、神は生贄を止めさせるという話です。このパンフはミサで配られたものですが、その解説に古代社会では人身御供も行われたが、イスラエルは異教の風習として厳しく禁じた、とあります。創世記はモーセ5書と言われて律法が書かれているのです。「先祖アブラハムの献げ物」の話で、人身御供禁止という律法が書かれているのです。シンプルに読んで理解すれば良いのです。

ゆるゆるその2
さて、シンプルに読んで理解する上で、妨げになるのが、福音派の牧師がよく言う、「聖書は無謬なる神のみ言葉である。聖書には誤りはない。完璧に神の霊感によって書かれたものである。」というのがスローガンですね。これを聴く度に、「うっそー」と叫びたくなるのです。それは、聖書を読めばすぐに気づくでしょと言いたいのです。
例えば、新約聖書にある、マタイ福音書の1-1は
*アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。
と訳されていますが、注に、a,別訳「創成の書」b,異による。別訳「創生」とあります。この「異」というのは、どういうことかといえば、別の写本には、このように書いてあるという意味なのです。新約聖書はいつできたのかといえば、325年のニカイア公会議だとされています。残っている写本で有名なのは5世紀初頭につくられたとされる「アレキサンドリア写本」とか、1844年に発見された「シナイ写本」や、バチカン図書館で発見された「バチカン写本」などが有名です。研究者によれば、写本には4系統があり、ビザンチンテキスト(中世後期の写本が多い)、西方テキスト(原型は2世紀にさかのぼるが、素人の複製が多い)アレクサンドリアテキスト(専門家によって作られたゆえにテキスト改竄が目立つ)中立テキスト(オリジナルに近いテキスト)とされたりしているが、アレクサンドリアテキストと中立テキストは同じもので3系統になるという研究者も多い。いずれにしても、写本には系統が有り、オリジナルはどれかと定めにくい場合、異本による注が必要になる。

新約聖書の原本はギリシャ語で書かれている。印刷されたギリシャ語新約聖書は1515年にデシデリウス・エラスムスによって出版された。最も「コンブルトゥム版多国語対照聖書」とよばれる新約聖書が1514年に印刷されていたが出版されたのが1522年だったので、エラスムス版新約聖書が普及して、決定版とされたのです。エラスムスは出版に際して、福音書に関してはバーゼルで手に入れた12世紀のたった1冊の写本を元に、使徒言行録、書簡などは同じくバーゼルで手に入れた別の12世紀末の1冊の写本を元に、ヨハネ黙示録に至っては、友人のロイヒリンから借りた散逸部分が多い写本を元に、散逸部分はラテン語版ウルガタ聖書の写本からギリシャ語に訳し直したものを編集してつくりあげたと言われています。その後、ルターのドイツ語訳聖書、さらに英語版の決定版である「欽定訳聖書」をはじめとして新約聖書の底本とされたのがエラスムス版だったのです。エラスムス版には、ラテン語版ウルガタ写本には入っているが、「ヨハネ断章」とよばれるヨハネの手紙第1、15-7~8の「三位一体」の教義が書かれている部分が入っておらず、批判を受けて後に挿入されました。

ゆるゆるその3
イエスの言葉はどっちなのという本題に入ります。
マルコ1-44~45「規定の病を患っている人を清める」という話の41節に
*イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると
ありますが、注に、この「憐れんで」の異文が「怒って」とあります。現存する写本は、2通りの形で伝えられているのです。
岩波「新約聖書改訂新版」マルコ福音書、佐藤研訳は、「するとイエスは腸がちぎれる思いに駆られ、」とあり、その注には、こうあります。
*普通「同情する」「憐れむ」と訳す。ただし原語(splanchnizomai)に由来する。内蔵は人間の感情の座であるとみなされていたため、同語は「憐れみ、愛」などの意に転化、それが動詞化した。その際の情動表現が日本語の「腸がちぎれる」(激しい悲しみの表現)と通じるので、訳語として取り入れる。なお田川訳は、西方系写本に従って「怒り」(orgistheis)と読む。


私は、田川建三訳の新約聖書ファンですので、ここは「怒り」と読みます。いずれにしても、どちらがオリジナルなのか、福音著者マルコは「完璧に神の霊感によって書いている」とするならば、どちらが神の霊感なのだというわけですね。規定の病というのは、重い皮膚病のだとも考えられますが、イエスはこの男を見て、「憐れんだ」のか、「怒った」のか、どちらなのだというわけです。マタイとルカは、同じ話を書いていますが、イエスは「憐れんで」とも「怒って」とも書いてはいません。イエスはどういう思いを持っていたか、どういう感情を抱いていたのか、イエスの反応については何も書かれていません。それは福音派の牧師は「神の霊感」によるためだと答えるでしょう。

マルコは「憐れんだ」と書いていたのか「怒った」と書いていたのか、どちらかが、書き変えられたのですね。どう書き換えるほうが自然かといえば、「怒った」を「憐れんで」にでしょう。思い皮膚病を患う男を憐れむのが自然で普通だからです。「怒った」というのは、何に怒っているのかが問題となるからです。ある人は、重い皮膚病という病を憎んで怒っているのだと言います。また、ある人は、思い皮膚病を患う男を除け者にする社会に対して怒っているのだと言います。マルコ福音書3章に「手の萎えた人を癒やす」話があります。イエスはファリサイ派に対して怒っています。ファリサイ派は安息日に手の萎えた人を癒やす権威はないと考えていることに怒っています。

イエスが怒りを爆発させるのは、イエスの意思、能力、権威を疑った時なのです。9章に「汚れてた霊に取りつかれた子を癒やす」話があります。その子の父に「もしできるのならと言うのか。信じる者には何でもできる。」と言っています。「憐れんで」とも「怒って」とも書いていませんが、明らかにイエスは怒っています。
もとに戻りますが、1章で、男は、「お望みならば、私を清くすることができます。」と言った、とあります。この男は、イエスの意思、能力、権威を疑っているような言い方に怒ったというのが、マルコ福音書のオリジナルだと、私は考えています。