527「告解しなくても罪は許されるか?」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

2月17日に地区の典礼研修会があり、春名神父「ゆるしの秘跡について」のお話を聞きました。また18日に合同黙想会があり、酒井神父「ゆるしの恵み」のお話を聞きました。ということもあり、「ゆるしの秘跡(告解)」ということに関して、あれこれ考えました。一般的なプロテスタント教会は、洗礼と聖餐しか秘跡はありませんが、カトリック教会や正教会は秘跡として「ゆるしの秘跡」があります。告解という言い方もされています。大昔は懺悔などとも言いました。カトリック教会には、告解室というのが必ずあります。そこで、神父に告解を行うのです。
洗礼によって、神の子となって原罪はなくなるのですが、原罪の名残があって、人は決して罪をおかさなくなるかというとそんなことはないでしょ。罪を犯した場合は、神にその罪の許しをもらわねくてはならないでしょう、というわけです。カトリックの場合、大罪と小罪というのがあって、最大の大罪は殺人行為です。殺意を抱くというのは小罪になります。一般的に〇〇を殺してやりたいと思うだけなら、小罪ですから個別に祈りを行って反省すれば良いということになります。殺人行為を起こした場合は、殺意のあるなしに関わらず、神父に告解する必要があります。告解すれば必ず殺人の罪は許されます。ただ、償いが必要になりますので、神父は警察に自首して裁判を受けて、それ相応の罰を受けなさいと言いますね。

ゆるゆるその2
一般的にプロテスタント福音派の教会に「ゆるしの秘跡(告解)」がないのは不思議です。福音派の特徴は「聖書は無謬なる神のみ言葉である。聖書には誤りはない。完璧に神の霊感によって書かれたものである。」というのがスローガンです。このスローガンによれば、聖書の次の箇所から「ゆるしの秘跡(告解)」が必要になりますね。
マルコ2-10
*人の子が地上で罪を許す権威を持っていることを知らせよう。
つまり、人の子というのはイエスのことですが、イエスは罪を許すことができるのです。
マタイ16-19
*私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。
つまり、イエスは一番弟子であるペテロに天の国の鍵を授けた。ペテロは初代のローマ司教だ。歴代のローマ司教(現在のローマ教皇)は天の国の鍵を持っている。ローマ教皇はイエスの代理人で一番偉いのだ、代理人だから人の罪も許すことができるのだというわけですね。ヨハネ20-21~23
*イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないままに残る。」
つまり、イエスの弟子たちは、人の罪を赦したり、赦さなかったりできるのだ、というわけですね。
パウロの「コリントの信徒への第2の手紙」5-18~19
*これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。
つまり、12使徒ではないパウロのような弟子でも、人の罪の責任は問わずに、和解させることができるのだ。和解させというのはどういうことかといえば、罪の赦しを与えることができるというわけですね。
カトリック教会のカテキズム1442には、こうあります。
*・・・キリストはゆるしの権能の行使を、使徒たちにおゆだねになりました。彼らは「和解のために奉仕する任務」(2コリント5・18)を授かったのです。使徒たちはキリストの代理者として派遣されていますが、その使徒たちを通して「神と和解させていただきなさい」(2コリント5・20)と勧め、嘆願しておられるのは、神ご自身なのです。
つまり、「ゆるしの秘跡」を用いて、神と和解しなさいというわけです。カトリック教会の場合、神父(司祭)はイエスの弟子だから、「ゆるしの秘跡」を行うのは務めだというわけです。


ゆるゆるその3
さて、「ゆるしの秘跡」を行うことができるのは、神父(司祭)だけかということですが、信徒すべてがイエスの弟子であるとするならば、信徒であるならば、誰でも「ゆるしの秘跡」を行うことができるというように考えられますね。
私が思うに、有り難み問題のためではないかと思いますね。神父(司祭)がやる方が、ありがたみがでるとわけですね。神社で言えば神主が祝詞をあげる、お寺で言えば坊さんがお経を唱えるほうが、ありがたみがあるというのと同じですね。
「万人祭司」説をとっているプロテスタント教会ならば、「ゆるしの秘跡」をどんどん行えばよいのに思います。「聖書は無謬なる神のみ言葉である。聖書には誤りはない。完璧に神の霊感によって書かれたものである。」というのがスローガンである福音派の教会に「ゆるしの秘跡」がないのは、聖書に誤りがあるという証明になってしまいますね。