525「福音派は無知蒙昧を好む」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

ユーチューブ動画の小林拓馬さんの「裏クラウドチャーチNEWS」は、面白いです。先日見たのが、「なぜキリスト教徒は神学校で学ぶと左傾化してしまうのか?」と言う動画でした。
小林さんの解説に、 個人的な感触ですが、キリスト教徒、特に神学校で学んだ人は、元々「福音派閥・保守派」であっても、「リベラル」「自由主義神学」の考えに変化する人が割合として多いと感じています。それは一体なぜなのか。考えてみました。
とありますから、キリスト教徒というよりは、「福音派・保守派」のプロテスタントは、というタイトルが適切でしょう。
小林さんは、その理由として神学を学ぶからだと結論づけています。神学を学習すればするほど、福音派の神学生は福音派としての信仰に疑問を持つからだと言っておられます。私に言わせれば、学べば学ぶほど信仰が揺らぐというのであれば、もともと信仰がなかったということか、福音派の信仰がバカバカしいものと考えるようになったからでしょう。カトリック教会の場合でも、日本の場合といったほうが良いかもしれませんが、第2バチカン公会議以降信徒に聖書学習を熱心にすすめるようになったようです。それまではカトリックの教義学習が中心で、聖書は読まなくても良いという雰囲気があったと聞いたことがあります。いずれにしても、これはいつも言っていることですが、それぞれの教派ごとに教理があり、その教理に基づいて聖書を読んでいるわけで、例えばルター派はルターの教理問答書に基づいて聖書を読むわけで、神学学習によってカルバンのキリスト教要綱に基づいて聖書を読むのが良いと判断した信徒はルーテル教会をやめてカルバン教会に移るわけですね。そういうことをされては困る教会は神学学習を拒否するわけですね。信徒はできるだけ無知蒙昧なのが良いということになるのです。信徒が学ぶことを恐れる教会には未来はありませんね。

ゆるゆるその2
小林さんの動画に対して、各種のコメントが寄せられていました。興味深いものを取り上げて、無知蒙昧問題を考えます。

(コメント)大変興味深いテーマです。私は家庭連合(統一教会)の信者ですが、神学校に行くと信仰を失いやすいという話を聞いたことがあります。その時は変な話だと思いましたが、今日の内容を聞かせていただいて、何となく分かった気がします。😊😊
*神学校で神学学習を行えば、家庭連合(統一教会)文鮮明の「原理コウロン」のバカバカしさがすぐに理解できますね。
(コメント)
問い:なぜキリスト教徒は神学校で学ぶと左傾化してしまうのか?
答え:神学校では神学よりも、左翼思想を重視して教えているから。
福音派です。聖書は誤りなき神の言葉であります。
日本の神学校のほとんどが、リベラルだと思ってます。
サタンは神学校から攻撃します。
日本語の聖書さえ、リベラルな先生もいらして翻訳されています。
うちの家族は聖書ヘブライ語を勉強しました。今は旧約聖書をヘブライ語から学ぶことを小グループでおこなってます。楽しいです!
*聖書は誤りなき神の言葉であるという教条主義は、無知蒙昧思想の極みですね。福音書著者やパウロ等の使徒たちは、ヘブライ語聖書(旧約聖書)を学習したのではありません。70人訳ギリシャ語聖書(旧約聖書)を基にしてキリスト教をつくったのです。ユダヤ教徒になりたければ、旧約聖書をヘブライ語から学びましょう。キリスト教徒になりたければ、70人訳ギリシャ語聖書を学びましょう。
(コメント)信仰を持って聖書を読む。聖霊が理解を助けてくれる。サタンがあらゆる手段を使い真理を歪める。この三点をしっかり押さえてクリスチャンの歩みをしていきたいです。
*どのような信仰を持つのかという観点は重要ですね。「聖書は誤りなき神の言葉である」という福音派の教条から聖書を読めば、聖霊は理解を助けてくれないでしょう。「聖書は誤りなき神の言葉である」のかどうかを考えることからスタートしなければ、聖霊は理解を助けてくれないでしょう。
(コメント)学校教育自体が、リベラルな気がします。校歌は歌っても、国歌は歌わない。学校で宗教的な事を言えば変な目で見られ、虐めの対象になり、阻害されるのが現実。リベラルにならざるを得ないですよね。
*60数年前、私が入学した田舎の公立小学校の講堂には、なんと教育勅語が掲げられ、二宮金次郎の石像があり、行事ごとに日の丸が掲げれ、君が代を歌わされていました。修学旅行は伊勢神宮参拝、学校で神道、仏教の事を言っても変な目で見られず、虐めの対象にもなりませんでした。阻害もされませんでした。なにしろ3年生の時の担任が坊さんでした。だからか学校にはクリスチャンの児童は一人もいませんでした。
(コメント)私は聖霊派ですが、リベラルは反対です。聖書は絶対的な神様の言葉でこれに逆らう人は神様より自分が偉いとでも思っているんでしょうか?信仰とは理解では無く従う事だと思います。
*聖霊派も福音派も「聖書は絶対的な神様の言葉」であり「信仰とは理解では無く従う事」であるという教理(カテキズム)であるならば、別れている必要はありませんね。そもそも神に従うということは、自分が理解する、自分が理解している神に従うということですね。ただ、聖霊派の場合、異言は神の言葉と理解しますから、自分が語った異言は神の言葉といういことになりますね。結局は自分の言葉に従うということになりますね。ということは自分が理解した神に従うということになるでしょう。
(コメント)知り合いの福音派牧師の多くがリベラルっぽく変化しています。私は、たくまさんが言うように、聖書は聖霊によって理解するものと思います。そうしないから様々な解釈、様々な教義が出現したのだと思います。
*聖書は聖霊によって理解すると称して究極的には各個人による勝手な理解と相成って様々な解釈、様々な教義が、とりわけプロテスタント各派に生まれたのです。聖書は聖霊によって理解するという観点自体が誤っているのです。
(コメント)私も家庭連合(旧統一教会)の約40年前からの信者です。キリスト教徒だけでなく、大体の人は左傾化するでしょうね。
私の証と共に今回のテーマについて私の意見を書きます。・・・私もいくら学んでも考えても確信できる答えは出せませんでした。・・・最後には文鮮明先生ご夫妻を100%信じ、統一原理を信じ抜いて生活をする事を決意して、引きこもりの生活から再出発をしたその日に、神様と出会い存在を確認して、今日にいたりました。
*旧統一教会以外はどんどん左傾化するのだ。だから文鮮明先生ご夫妻を100%信じ、統一原理を信じ抜いて生活をする事を決意しましょう、というところに行き着くのでしょう。理由は、文鮮明の統一原理の学習だけをした結果でしょう。それは無知蒙昧と同一なのですね。
(コメント)私はかなり特殊な例ですが、父は極右のカトリック出身、母は曾祖父の代からリベラルでした。私の行った学校も創世記は神話と教えるようなリベラルな学校でした。中学から自分で行くようになった教会は福音派の教会でした。今、行っている教会は気がつくと左よりだったので、ちょっと居心地が微妙で、右にも左にも寄りたくない、とにかく聖書の言葉はまるっとそのまま信じて行こうと思っています。これ、どう思う?ということがあったら何でもお尋ね下さい。
*非常に面白い、興味深いコメントです。実に正直。そもそも何を基準にして、右だ、左だ、極右だ、極左だ、リベラルだ、反リベラルだと言うのでしょうね。右にも、左にも寄りたくないなら、そのような教会を探せば良いだけの話ですね。日本では、とりわけキリスト教は少数派ですので、教会選択の自由度は高いです。聖書の言葉はまるっとそのまま信じて行こうと思うなら、そのような教会を選べば良い話です。そんな教会がなければ、それこそ万人祭司を唱えたルターに習って、自分の教会をつくれば良いだけの話なのです。
というようなことをあれこれ考えさせられた有意義な動画でした。