516「神の存在、トマス・アクイナスの悩み」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

カトリック大阪教区のミサに出ると、ミサの中で必ず出てくる名前が、トマス・アクイナス前田万葉です。枢機卿であり大司教である前田万葉神父の洗礼名がトマス・アクィナスなのです。トマス・アクィナスに関しては、これまで何度も取り上げました。トマス・アクィナスの名著「神学大全」は大著で「神論」の部分が中公世界の名著シリーズで訳されていて読みました。現在、岩波文庫から精選神学大全1「徳論」が出版されていて、眠さと戦いながら読んでいます。トマスは自分で自分自身相手にディベートをやっています。読めば読むほどよくわからないというのが、実感です。
トマスは、神が存在するということを、これでもかというくらいに論じています。なぜ論じるのか、トマスは悩んでいたのです。その解決のためにあれこれ論じたのです。私の理解できたのはほんの少しですが、お付き合いください。

ゆるゆるその2
トマスは、こう言います。物事には原因がある。生じるものには原因がある。この原因には、そのまた原因がある。原因を追求して行けば、最初の原因に行き着く。全世界、全宇宙が動き始めるには、その原因がある。運動には始まりがある。最初の原因、最初の運動の始まり、それをは神なのです。
*全世界、全宇宙は不可解なものですよ。原因結果の因果関係と言っても単に観察されているだけのものですよ。人間が単にそう思っているだけですよ。というようなチャチャチャが入ります。
トマスは、こう言います。我々の身近な世界はほとんど偶然的なものです。多数の偶然的なものが重なって、私が今読んでいる本があるのは、絶対に、あるいは何となく読もうと思わなければ、読んでいませんね。そして著者がいなければ本はなく、出版社がなければ本はなく、製紙業者がなければ本はなく、・・・というように多数の偶然的なものが積み重なって今読んでいる本があります。しかし、その偶然的なものを存在せしめているものがあるはずだ。偶然ではなくて必然としているものを神と呼びましょう。時計を考えよう。歯車と歯車の運動のような個別の関係は説明できる。時計全体を動かしているものがある。全体を動かしているものを神なのです。
自然界は、時計のように複合したメカニズムであり、明らかに計画されたものなのです。太陽系の惑星の公転、自然、生物、人間、すべてが偶然的にでたらめな作用によって出現したのではない。神がつくりだしたのです。だから必然となっているのです。
*そんなことはないでしょ。宇宙も世界もでたらめに動いていますよ。デタラメに動いている中で都合のよいものだけが残っているのに過ぎないのです。地球にあるオゾン層を考えてみても、神がまず生物をつくり、この生物を保護するためにオゾン層をつくったのではなくて、はじめにオゾン層があって、それに適合できた生物だけが残っているだけですよ。というようなチャチャチャが入ります。

ゆるゆるその3
神の存在に関しての、トマス・アクィナスの悩みとその解決方法は出されたのかというと難しいです。神は存在しないというのを証明するのも難しいのです。
社会学の理論、例えばデュルケム理論によれば、人々の礼拝する神々は社会が道具として作り上げたものであり、社会は想像上の神々(個人崇拝、個人の神格化を含む)を利用して個人の思想や行動を支配してきた、というような理論です。神を創造したのは人間であり、それは自己の社会的な存在を維持するためだったというわけです。
*トマスなら、そんなことはないでしょ。神はすべての人間を愛し、すべての人間に対して、互いに兄弟姉妹としていたわりあうように命じている。神の声と人間集団の声とは同じではない。社会に超絶した良心の力の存在を認めないのか・・というようなチャチャチャを入れるでしょう。
心理学の理論、例えばフロイト理論によれば、宗教は自然や社会や政治がもたらす様々な脅威に対する精神的な防衛である。人間の想像力は、これらに対して神秘的な人格を持った神を作り出すことによって脅威に対する不安をなくそうとした。
*トマスなら、そんなことはないでしょ。心理学という個人のレベルから見るとそういう一面があるだろう、宗教は心理的な松葉杖としての一面があるのは事実だが、あくまで人間の方向から神を見ているにすぎないではないか・・というようなチャチャチャを入れるでしょう。実際のところ、存在の証明も存在否定の証明も難しいのですね。