515「聖書は同じではない!」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

聖書協会共同訳には、旧約聖書続編付きと続編なしの2種類があります。共同訳はその名の通り、カトリック教会と主要なプロテスタント教会が共同して日本語訳を作りました。続編付きがカトリック教会の正典で、プロテスタント教会の正典が続編なしになります。新改訳2017はプロテスタント教会の福音派が中心になって作った日本語訳で続編はありません。
ミサや礼拝や集会で使用している日本語訳に関しては古い訳を使用している場合も多く、最新版はあまり使用されていません。
それぞれの教会が正典とする聖書自体が同じものではないということは知られていません。またモルモン経を正典に加えるモルモン教とか原理講論を正典に加える旧統一教会は除きますが、いつから同じものでなくなったかといえばルター以降ですね。

ゆるゆるその2
ユダヤ教の聖書(キリスト教が言うところの旧約聖書)が正典とされたのは、キリスト教が成立してから数十年後の西暦90年代にユダヤ教のラビたちがヤムニア会議と呼ばれる会議で正典としてのヘブライ語聖書を定めました。それに対して、当時のキリスト教会は397年のカルタゴ公会議で、今日のカトリック教会が言うところの旧約聖書を正典としたのです。ここで言う旧約聖書とは紀元前3世紀から2世紀頃にヘブライ語原典からギリシャ語に訳された「七十人訳聖書」を意味していたのです。「七十人訳聖書」の内容と順番はヘブライ語聖書とは異なりました。405年頃にヒエロニムスが「七十人訳聖書」を基にしてラテン語訳を作り「ウルガタ聖書」と呼ばれカトリック教会の正典とされたのです。16世紀になってルターが宗教改革を進める中で、ユダヤ教のヘブライ語聖書を正典としてドイツ語訳聖書を作ったため、カトリック教会が正典とする旧約聖書の順序と内容が異なることになったのです。その後のプロテスタント教会もルターに習ったため、カトリック教会とプロテスタント教会で用いる旧約聖書の内容と順序が異なることになったのです。

ゆるゆるその3
新約聖書ですが、これも397年のカルタゴ公会議で正典とする内容と順序が定められました。新約聖書はギリシャ語原典に基づいていますが、福音書や使徒行伝や書簡類や黙示録に関して、どれを入れる入れないということが論議され、なかなか決めることができなったのです。
旧約聖書も新約聖書も正典とされましたが、今日のように印刷されて本になって読まれたのではなく、写本という形で広がって読まれたのです。当然写本ですから、写本によって単語が異なりますから、日本語訳する場合、どの写本を原典とするかによって内容が異なってくるのです。
そんな事を言いだしたらきりがありません。
私は、我々自身が今もなお、聖書の正典の形成に関与し続けていくことが大切だと考えています。聖書は同じではないという前提で読むことです。内容や順序も、これで良いのかということも考えながら読むことが必要です。
聖書は神聖不可侵のものでないことは、宗教改革に取り組んだ、ルターが彼の訳したドイツ語聖書の序文の中で、「ヨハネの黙示録は使徒的とも預言者的ともみなすことができない」と語っている。あと、私が大好きな「ヤコブの手紙」に対しては、「まことに藁の書簡である。なぜならば、この書簡はそれ自体何ら福音としての性質を持っていないからである。」とまで言っていたのです。ルターのいわゆる信仰義認説の立場と真逆の立場なのが「ヤコブの手紙」なのですから。カルバンも「ヨハネの黙示録」「ヨハネ第2の手紙」「ヨハネ第3の手紙」を無視していたのは有名です。
ルターやカルバンは、自由に聖書批判、正典批判を行っていたのです。旧約聖書にしても、首尾一貫する形でその神理解や人間理解を示しているわけではないが、イエスにしてもパウロにしても、自分たちの考えとの連続性を認めているのです。4つの福音書にしても、相互には齟齬や矛盾があり、それをそのままさらけ出しているのです。色々あって、矛盾していてもいいのだよというのが、聖書なのです。170年頃にキリスト教会の教父の一人だったタティアーノスが4つの福音書をもとにして、時間的な順序も内容に矛盾のない統一ある「イエス伝」を書きました。しかし流行らなかったのでした。4福音書の相違、矛盾そのまま考えていこうと正典作りの中で考えられたのですね。