522「霊における対話とは」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

カトリック教会で流行りそうな言葉に「霊における対話」というのがある。副題が「シノドス的教会における識別のダイナミズム」というものだ。要は、会議、グループ討議の進め方の手法のことである。グループ討議のことを「分かち合い」という言い方がされる。1月22日朝日新聞朝刊28面の記事に「実りある会議にしませんか、提案力磨け会社で貢献」とある。決まらない、終わらない、意味がない、ああまた会議か。そう感じたことがある人、多いのでは・・とある。ある販売会議の例で、どんな雰囲気かというと、「重い会議」会議は4時間を超える、限られた人のやりとりが続く。質問や意見を促されても、多くがパソコンに目を落とし黙っているという。・・・という記事だ。なぜそうなるのかというと、心理的安全性が保証されていないからだ。耳の痛いことを言っても干されないという「安全」が共有されている状態を言う。会議を見れば会社が分かる。・・・とある。実りある会議にするための取り組みがあれこれ書かれている。
これらのことは、会社だけではなく、各種団体、すべての組織に言えることだ。嫁様はある団体の委員をやっているが、こぼすこと、こぼすことしきりである。開始時刻は決まっているが定刻に始まらない。終了時刻は決まっていない。役員以外に発言する人は特定の人物だけ。特定の人物は議題に関係のない自分の近況報告と昔話と自慢話をもっぱら行う。疑問や反対意見が出た場合は、ほとんどの人は黙っている。賛否の意見を求められても、場の雰囲気を考えて、賛否を明確にしない。疑問、反対意見に対しては取り下げるまで特定の人物が説得を繰り返し、多数決を取って賛否を決めようと嫁様は言うのだが、多数決は最後までとられない。最後には、役員提案が何となく決まったような形にして終了させるとのことだ。これなども心理的安全性が保証されていないからだろう。

ゆるゆるその2
私が委員として参加している、地区の信仰養成委員会の会議は、心理的安全性が保証されているのか、発言せずに黙ったままという人はいない。必ず全員が発言する。定刻に開始し定刻に終わる。会議の時間は2時間と決まっている。賛否は最終的には多数決であるが、互いに妥協しあって?それなりの結論になる。委員会担当の司祭は意見を言うが、拒否権はない。
といった中で、出されたのが「霊における対話」を行ないましょう。「シノドス的教会における識別のダイナミズム」に基づいて、という提案だった。黙想会や講座のあとの「分かち合い」において「霊における対話」をやってみようという提案だった。3つの基本的なステップで行うもので、
第1ステップ、各自が発言することに専念する。準備の時間に祈りのの中で振り返った自分の体験から始める。他の参加者は、一人ひとりが貴重な貢献をしているという意識を持って、議論や討論をせずに耳を傾ける。
第2ステップ、再度、各自が発言の場に立つ。聞いたことに反応したり反論したり、自分の立場を再確認するためでなく、耳を傾けたことからもっと深く感動したことや、もっと大きな課題を感じたことを表現する。姉妹や兄弟に耳を傾けることから生まれる内なる足跡は、聖霊がそれとともに自らの声を響かせる言語なのです。
第3ステップ、再び祈りの雰囲気の中で、聖霊の導きのもとに、浮かび上がった重要なポイントを特定し、共同作業の成果に関する合意を形づくります。
提案者に、私は「祈りの雰囲気」とはどんな雰囲気のことかと質問をすると、なんと提案者は答えずに「あなたはどう思うのか」と逆に質問してきた。おいおい、尋ねているのは私だよと思いつつ、みんなは黙ったままで、静かで、静寂に満ち、シーンとしていることでしょう、というと提案者は黙ったままなので、「あなたはどう思うのですか」と再び尋ねると、「そのようなものでしょう」と答えたのだ。「なんかよう分からない」というと、担当司祭が、「具体的に言うと、全員が発言する。発言者の発言時間は1分間に限る。その後2分間の黙想を全員が行う。これをくりかえすことが、祈りの雰囲気です。」と解説した。「霊における対話」に基づいた「分かち合い」というのは、「1分間発言、チーン、2分間だんまり、繰り返し方式」のことですね、というふうに私は再確認したわけですが、だいたいそんな方法のようである。一口に「祈りの雰囲気」をつくり出すと言っても、具体的には、どうすればつくりだせるのか、やり方が分からなければアカンのです。確かに、心理的安全性を与える方法としては、有効かもしれません。次回、一回やってみるということに落ち着いたのですが・・・