



前衛写真で知られる小石清、見事な作品を残しながらも戦争という出来事で彼の写真人生も大きく変化し、49歳の若さでこの世を絶った惜しい写真家の一人であります。、1908年3月 (明治41年)、大阪で生まれた小石は高等小学校卒業後写真関係の浅沼商会に入り写真技術を学ぶ、21歳の時に1929年(昭和4年) 浪華写真倶楽部に入会、 23歳、1931年(昭和6年)自分で写真店を開き写真家として歩むことになる。昭和6年ドイツ国際移動展が大阪であり、いわゆる新興写真を目にしたわけであり、その影響を大阪の写真家は特に強く受けた。中でも小石清はフォトモンタージュに取り付かれ次々と作品を発表して時の話題の人となったのであります。
当時関西では、安井仲治、上田備山、小石清、らが浪華写真倶楽部と丹平写真倶楽部を掛け持つ形で新興写真へとこぞって作品を発表していくのであります。
そんな中、時の話題の人となった小石も戦時に赴くことになり、報道員として出兵、国の思う写真を作るという、本来の姿とはまったく違った中で写真活動を続けていた。1940年昭和15年に一度[半世紀]という写真集を出しているがあまり評価されたように無いものとなった。
この頃から小石清は自身の方向が変わったのであろうか、戦地から引き上げ門司で落ち着く、昭和20年、門司鉄道管理局嘱託となっている。1949年に北九州写真協会審査員、1951年日本報道写真連盟理事などしているが彼の作品はあまり見ない。
1955年尾崎士郎先生、1956年内田百問先生が唯一確認できている。
阿房列車を執筆した百問は鉄道の旅が好きで取材を兼ねて九州を訪れたとき、小石は同行して撮影したものであります。門司で内田百問と別れて2週間余り後の事故でこの世を去ったという、やりきれない最後であったようです。
しかし、聞いたところによりますと、当時酒は貴重なもの、中々手に入らず、好きな酒、そんな頃メチルアルコールに手を出していたようで、後に視力を悪くし、駅のホームで倒れてこの世を去ったという、1957年 (昭和32年) 7月7日七夕の日であった。余りにも惜しい死であった。
彼にとっても戦争さえなければもっと世に残す膨大な作品を作ったであろう一人であります。