キミとボクとボクたちのヤクソク。 | 踏まれたり蹴られたり...._| ̄|○

踏まれたり蹴られたり...._| ̄|○

「踏んだり蹴ったり」って....あーた、被害者なら「踏まれたり蹴られたり」ってのが正しいんぢゃない??日本語ってばむつかしい...._| ̄|○  (BTW, ついでに、人も指せない「足の親指のトナリの指」を何て呼べばしっくりくるのか、教えてヱライひとっ!!)



喜怒哀楽。

哀がセンターじゃなければ “エネルギー” は生まれると思った。

どんなカタチで
どんな大きさで
どんな温度で
どんな理由でも
哀を抱えてさえいなければ多少のチカラは湧くのだな。 と。

....嗚呼。
音は不思議ね。

アイにアイがないのに
アイ以外にはアイがあるや。



喜や楽には他者や自分へのアイ。

怒には他者へのアイ。
(彼や彼女を傷付ける人間への敵意にも似た “愛ではないもの” は生まれるけど、それが逆に彼らへの愛を再認識させるからね。)

だけども哀にはアイがない。自分へのアイがない。自省や自己批判、自己否定だけで自己愛がない。


楽しみにしてたこと。
始まってもいないこと。

気力アンダーゼロで
エンジンかけるチカラすら湧いてこないとか意味不明。

アイが足りないのかな。
テラ哀シス。



自己主張はすればいい。
“想いを伝える” は必要なことだし大事なことだ。
(融和しそうもない想いと想いも “伝える” ことで重なるようになるかもしれないし
“伝え合う” ことで双方の間にある着地点を見つけられるかもしれない。 ....なんて希望?)

自己弁護が必要なこともあるだろう。
(誤解を誤解のまま放置して自分を疲弊させていくより
誤解を少しでも小さくするためにコトバを尽くす。に賭けるほうが徒労に終わっても多少は救われるだろうからね。)


でも。

自分を擁護するための言い訳なら聞きたくない。

自分を正当化するために使うコトバが結果的に他人を貶めることになるとは考えもしない。
「自分は悪くない」 「悪くないから仕方ない」 を貫くことを正義とし完結し満足する。
吐き出すコトバが結局は自分の品格を ── 魂のレベルを下げていることに気付きもしない。
それは罪だと思うんだ。

称賛されたいだけなのか
コトダマ。不在のウワベだけの ── 薄っぺらいだけで響かない
“キレイゴト” 並べてクチだけ着飾って
だから余計に芯がない本質が見えちゃう。
それは愚かなことだし、残念なことだと思うんだ。




アタシだって他人のことをとやかく言えるような “ちゃんとした人間” じゃないけど (そうだショーガイシャでしたすみません。)
これだけは誓える。

アタシは、自己保身のためだけのコトバは使わない。
コトバを第三者に投げたりはしない。










“特定のファンに対するネガティブな発言” は
仲間うちの愚痴で留めておくのが賢明。

アーティストがファンに
ファンがアーティストに

話してしまったらそれはもう
愚痴じゃなく悪口。


コトバ。の持つチカラは ── コトダマ。は
プラスにもマイナスにも働くのを忘れちゃダメだ。

プラスに使えば自分にも自分の大切なヒトにもプラスに働くけど
マイナスに使えば守りたい自分を貶める結果にさえなる。




コトダマ。の強さも優しさも怖さも

(出来れば僕たちが交わした約束も!!)

忘れない自分でいられますように。

Amen。