表現者の挑戦や目に見える変化だけじゃなく
気付きにくい事実や
魂の温度とか色とかを含めた表情とか
ちょっとした遊びゴコロ ──
【差異】 なら些細なことでも、ちゃんと。
もっともっと、ちゃんと。
気付けるヒトになりたい。
表現に関しては、特に。
大好きな表現なら、尚更。
ね。
アタシの耳。をヤケに信用してるPAがいる。
ライブの後、目撃した表現を 「どう受け止めたか」
アタシが抱いた感情を訊ねてくる表現者がいたりもする。
彼らにイロイロ問われる度に
【見当違いなコトをクチにしなかったか】
気にして気にして
「もしかして今日もセーフ??」
を繰り返すことに少し疲れていた時期があって
【表現されたもの】 に対して
個人的主観を伝えることに疑問も感じ始めていたから
アタシは
クチを塞ぎ
目を塞ぎ
耳を塞ぎ
徐々にその場所を手放していったのだけど。
今。
また。
懲りずに。
....さ。
── 学習能力なっしんぐ。(;▽;)
確かに、記憶の最初から
【文字】 と 【色】 と 【音】 に溢れる環境にいた。
父親のスタジオからラジオの音が途切れることはなかったし
仕事が終われば
父親は私にレコードを 【聴】 かせ
母親は私に 【歌】 を教えてくれた。
【音】 がある生活は “日常” だったし
(“誰もいない” “全く音がしない” 場面に遭遇した時に
自分のアタマをドアにぶつけて
「ゴンゴン」 という音を確かめながら
押し寄せてくる物凄い不安と闘った記憶が一度だけある。
【無音】 で完全にパニック状態。
【ゴンゴン】 しか思いつかなかったのが
今考えても笑えますけどね。ww)
誰の家でもそんなものだと信じていた。
聖歌隊に入ったのだって自然の流れだった。
ピアノは3歳から習った。
習い始めてすぐから
【聞こえたピアノの音】
を五線譜に書く訓練をした。
全全半全全全半。
トニイホロヘハ。
各キーから始まる相対的なドレミファソラシドや
長調、短調、協和音、不協和音を “勉強” させられた。
3つや4つの子だってやれば出来る。
でも
週に1度のレッスンを12年続けても
ピアノは上手くならなかった。
── 歌の神様とは縁したけど
楽器の神様とは縁がなかった、アタシ。
沈まない声は武器だ。
声が出てるとか出てないとか出せる音域とかが
訓練でなんとかなる以上
そんな声。を持ってるヒトにはアドバンテージがある。
アタシのアイする唄ウタイ。は皆
【神様からの Gift】 であるそんな声を受け取って生まれたヒトたちで
だから
歌詞が自然にアタシの中に入り込む
彼らの唄 ── 彼らからの 【メッセージ】
がココロを引っ掻くことはとても多くて
ずっとずっとアタシは
【メッセージは残るべき】
だと信じてやまなかったのだけど
気付いてしまったワケよ。
音に沈まない唄声で “音として” 歌詞を伝えてもらったって
日本語じゃない以上 ── その言語のネイティブじゃない以上
込められたらメッセージの 【真意】 なんか “理解” は出来ないコト。
なのに
意味を “理解” 出来なくたって
何故か 【伝わってくる】 コト。
歌詞なんかわからなくても
アイ。をちゃんと 【感じられる】 コト。
つまり
音楽は
【More than Words】 で
【体感】 で
だから
コトバなんか通じなくても
【音で繋がることが出来る】
【唄で繋がることが出来る】
コト。
声質で好みのボーカリストを選んでるんじゃなく
【ココロ】 で唄う
【タマシイ】 で伝える
【伝えたいトイウ情熱】 に溢れる
唄ウタイだったから、ってコト。
(これは、唄ウタイ。だけに言えることではないよ。
アタシが “君” を好きなのは
君がちゃんとそれが出来るヒトだからなんだよ。)
表皮だけ。
カッコだけ。
カタチばかりの情熱。 じゃなく
アタシのココロを引っ掻いてくれるような
そのヒトの真芯から湧き上がる
伝えたいトイウ情熱。 が見える表現にアイに行かねばね。