2017年10月11日の東京新聞の暮らし欄。
読者の投稿「あけくれ」を読んで、心が温かくなったので、ご紹介します。
叔母が97歳で亡くなり、四十九日法要に参列した。夫や三人の子どもたちに先立たれ、一人暮らしが長かったが、明るく元気で、俳句にいそしみ、年に一度の親戚の集いには、一昨年まで参加していた。「百歳までがんばる」が口ぐせだった。
身内ばかりの参列者の中に、見慣れぬ老婦人がいた。目が合うとニコニコと会釈して、親しみやすい感じの方だ。納骨後のお清めの席で隣になった。地域のシルバーセンターから派遣され、四年間一日置きに叔母の家へお手伝いに来てくださり、良き話し相手になっていただいていた。
身内の私たち以上に、叔母の家族や故郷、趣味嗜好などをよく知っていた。叔母は自分の人生を彼女に何度も語ったという。優しく聞いてくださったから、叔母は心ゆくまで語ることができたのだろう。さぞ慰められ、助けられ、幸せだっただろう。
遺品の整理もしてくださるとか。晩年、良い方に出会えて、本当に良かった。
老後、一人暮らしになったとしても、こんなふうに過ごせたとしたら、幸せだろうなと思う。そのためには、自分自身がいい人間になっておかないと、ね。
最近、南直哉さんの本を数冊読みました。厳しい修行をされたお坊さんの言葉は心にしみます。
老師と少年 (新潮文庫)
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P87
「師よ。しかし、人の欲はそれだけではありません。それに、自分が生きていることに苦しむ人は多くないはずです。」
「そうだ。人の欲は財産であったり、地位であったり、名誉であったりがほとんどだ。だが、友よ。なぜだ?なぜ人はそれを欲する?」
少年は答えようとした。だが、老師はそれを待たなかった。
「うらやまれたいからだ。ほめられたいからだ。認められたいからだ。誰もが欲するものを身に抱えることで他人に欲せられたいからだ。」
少年は、声が出なかった。
「他人に欲望されることで、自分を支え、生きていることを受け容れる。」
「だから、それを持てないから苦しむのでしょう。」
「そうかもしれない。ならば、それを持てば苦しみはやむのか?」
私は、子どもを授からなかったことを思いつめていたとき、
「子どもがいない人生なんて生きる意味がないんじゃないか。早く死にたい。」
とまで、悩んでいました。(今でも時々、心によぎります)
子育ての経験ができなかったことは、本当にさみしいし、ものすごく残念です。考えると、胸が苦しくなります。
そして、他人に「あの人、子どもがいなくてかわいそうだね。」と思われていると想像すると、消えてなくなりたくなります。
でも、嘆いても仕方がない。
今さら、どうしようもないことなんだから。
それに、子どもを授かっていたとしても、それはそれで悩んでいたかもしれないし・・・。
老後も心配だけど、どうしようもなくなったら餓死してもいいかな、なんて、思っています。
夫が死んで、一人暮らしになったら、小さなワンルームに住むつもりです。
駅や病院、スーパーが近くて、便利なところがいいな。年をとったら、一階に住んだほうが便利だろうな。
そして、持ち物は最小限にしておく。
賃貸の方が死後の処理がラクかもしれないけど、それは、まあ、そのときに考えよう。
恥ずかしくないように、きちんとしておきたい。
これからの人生、何のために生きるのか、と考えて落ち込むときには、この本の中の言葉を思い出そうと思います。
大切なのは答えではなく、答えが分からなくてもやっていけるということ
生きる意味より、死なない工夫
私は、ブログを書くときは、必ず明るく締めることにしています。それは、明るい未来を引き寄せたいからです。
子どものいない人生を何とか受け入れて、明るい気持ちになるよう工夫して、死ぬまで生きていこうと思います
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ご覧にになっていただきありがとうございました