ホルツ村は、深い森に囲まれた辺鄙な村だ。
 村人のほとんどが林業に携わり、森と共に生きている。

 村はずれに住むカールも、代々きこりの家系だ。
 父親も祖父もそのずっとずっと祖先も、木を切り倒して暮らしてきた。

 だから、森には深い感謝と信仰を抱いているし、糧を生む『道具』は命の次に大切なものだ。

 実直な性格のカールは、今は亡き父親から譲り受けた道具を毎日磨いていたので、斧も刀も鉄製だが錆びひとつない。
 それが彼の細やかな誇りであった。

* * *

 ある日のこと。

 独り暮らしのカールは、いつものように道具と弁当を持って、森に入った。

 この森は村の共有財産で、切り倒した木材は村の組合に持ち込むことになっている。
 組合が販売した金額から一定の手数料を差し引いて、カールたち『きこり』に収入が手渡されるのだ。

 朝から数本切り出したので、頃合いを見て昼食を取った。
 木漏れ日の加減で時間を計る。切り株から腰を上げ、さぁもう一仕事――とカールはブナの大木に斧を入れる。

 ――カーン……コーン……カーン……コーン……

 リズム良く幹に楔が入る。

 ――カーン……コーン……カーン……コーン……

 気分良く斧を奮っていたカールだが、汗が額から零れた拍子に――ちょっと油断した。
 スルリと斧の柄が、掌からすり抜けた。

「……しまった!!」

 咄嗟に叫んだが、斧はクルクル弧を描いて、森の奥に姿を消した。

 重い斧のことだ、すぐに見つかるだろう――簡単に考えていたカールだが、見失った方向をいくら探しても見つからない。

 斧がなければ仕事にならない。何としても見つけなくては。

 途方に暮れて、それでも辺りを探し歩いていると――不意に木立が開け、茂みに隠された小さな泉が現れた。

 こんな所に、泉なんてあったのか? 知らぬ間に湧いたのだろうか……?

 この森は、子どもの時から祖父や親父に連れられて、既知の庭のような場所だ。

 いぶかしみながら、泉に近づく。

 暗い森の中に沈む水面は、不思議なことに鮮やかなエメラルド色に輝いていた。

 カールが木陰から、更に一歩、踏み出した時――。

 ……ザザーーッ……!

 風もないのに、俄に波立ち、中央からボコボコと大きく水面が盛り上がった。

「――?!」

 そして――目映い輝きと共に、澄んだガラスのような半透明の女性が水上に現れた。

 ドレープがたっぷり入った、古代の神々のような衣装。髪も長く、足元まで緩くウェーブしている。
 泉と同じ、淡いエメラルドグリーンの全身は、森の精霊をイメージさせた。

 驚いたカールは、泉の畔にヘタヘタと座り込んでしまった。

「――そこの者」

 静かなハープの音色のような、しかしはっきりと言語と理解できる『声』が、カールを捕らえる。

 恐怖は感じなかったが、祖先から叩き込まれてきた自然に対する畏敬の念が、カールを震えさせた。

「……恐れる必要はありません。私は、この泉の主です。お前は、先刻、泉に斧を投げ入れましたね?」

 カールは首をブンブンと振り、

「すみません! わざとじゃなかったんです! 手が……滑ってしまって」

 と、その場で平伏した。

 泉の主は、しばらくカールを眺めていたが、再びハープのような声で語りかけてきた。

「――わかりました。では、尋ねます。お前が落とした斧は、これですか?」

 顔を上げたカールの目に、泉の主が腕に抱えた、キラキラ輝く黄金の斧が飛び込んだ。

「め、め、滅相もない! そんなお宝は、見たこともないです」

 カールの狼狽え振りに、泉の主は、エメラルドの宝石に似た瞳を細めた。

「では――この斧ですか?」

 泉の主の腕の中に抱えていた黄金の斧は、煙のように消え、瞬時にピカピカ輝く銀色の斧が現れた。

 カールは再び、首を大きく横に振った。

「それも、違います。そんな立派な斧じゃなくて……」

「それなら、」

 カールの言葉を遮ると、泉の主は、銀の斧も消し、粗末な鉄の斧を取り出してみせた。

「お前が落としたのは、この鉄の斧ですか――?」

「あっ、それです! 俺の大切な斧です!」

 泉の主は、はっきりと笑みを浮かべると、スッ……と音もなく、カールがいる畔に近づいてきた。

「……お前は正直者ですね。斧は返してあげましょう」

「ありがとうございます!!」

 カールは喜んで、恭しく頭を下げた。

「……これ、顔を上げなさい」

 促されて泉の主を見上げると、その腕には金銀の斧と、カールの斧、3本が抱えられている。

「お前は正直者なので、この金の斧と銀の斧も差し上げましょう。これからも、真面目に励むのですよ」

 目を丸くしていると、泉の主はパア……ッと緑の輝きに包まれ、余りの眩しさに、思わずカールは瞼を閉じた。

 ――遠くで鳥の声がする。
 木々の葉擦れがサワサワと耳をくすぐる。

 カールは恐る恐る目を開けて、辺りの様子を伺った。

 泉は、確かにあるが、もはや水面に輝きはない。
 時折、木漏れ日を受けてチラチラ反射するが、深く重い色を湛えている。

 既に『泉の主』の姿もなく、ただ一点を除けば、先程までの出来事は白昼夢とさえ思えた。

 それは、カールの前に揃って置かれた3本の斧だ。
 泉の主から与えられた金銀の斧、そして父親から譲り受けた大切な鉄の斧――。

 物言わぬ斧たちが、現実であったことを揺るぎなく語っていた。

* * *

 正直者のカールは、この出来事を村長に『正直に』報告した。

 直ちに、カールが手に入れた金銀の斧の鑑定が行われ、それらが純金と純銀であることが確認された。

 村は、大騒ぎになった。

 長年、森に生かされてきた村人たちは、森に対する感謝や畏敬の念は、カール同様抱いていたが、しかしこの村は決して豊かではなかったのだ。

 村の有力者たちが何度も会議を重ねた結果、泉の主が再び現れるものか、試みようという結論に達した。

 だが、カールの件を受けて直ぐというのもあからさま過ぎる……と年配者たちが慎重になったため、決行は3ヶ月後、という意見でまとまった。

 更に、泉の主の言葉に従い、これまでと変わらぬ勤労の精神で過ごすよう、カールに指示が下った。

 元より真面目な性分だ。
 カールは大量の金銀を得て、巨万の富が転がり込んだとはいえ、生活を変えることはなかった。

 斧や道具を磨き、他のきこり同様、数本の大木を切り出す毎日だ。

 唯一、変わったことと言えば、弁当を自分で作らなくてもよくなったことだ。

 それというのもカールは、とある有力者の1人娘と結婚し、所帯を持てたのだ。
 新妻との幸せな日々に、カールは益々森に感謝して暮らしていた。

* * *

 カールが泉の主に遭遇してから、3ヶ月が経ち――ついに、決行の時が来た。
 村人の中から、ミハエルという若者が選ばれた。

 ミハエルもまた、嘘の付けない男だったが、彼はカールの幸せな結婚を羨み、この『試み』が成功した果ての幸せな人生を思い描いていた。

 実際――独身の村の男たちで、カールの人生を羨まない者は皆無だった。

 普段使っている斧は刃こぼれや錆があったので、泉の主に失礼がないように、ミハエルは真新しい斧を持参した。

 村役場で地図を前に、カールから入念に泉の位置を確認する。

 村と独身男たちの夢を背負って、ミハエルは森に向かった。

 しかし、彼が村に戻ることはなかった。

* * *

 翌日、話し合いの末、数人の男たちが、ミハエルを探しに森に入った。
 カールを道案内にしたので、直ぐに泉にたどり着くことができた。

 泉の畔に、人影が見える。

「――おーい、ミハエルかー?!」

 返事はない。

 村人たちが泉の前に来ると、驚愕した表情のまま、両腕で光を遮ろうとした姿勢で石化した、ミハエルの姿があった。

 彼の足元には、持って行った鉄の斧だけが転がっていた。


【了】

 突然の雨に降られ、甚六は山寺に駆け込んだ。

 弥勒堂の軒下には数段の石段があり、一番上まで昇ると、なんとか濡れずに済みそうだった。

 春雨かと思いきや……畜生め、本降りになりやがる。

 深い木立に雨筋が見える。境内の玉砂利に雨粒が当たり、バチバチと激しい音が鳴った。

 ――ピカッ!! ……ガラガラガラッ……!

「……ヒッ!」

 雷が鳴った拍子に、細い女の声が上がる。

 ひさしから首を伸ばすと、いつの間にか弥勒堂の角に女が震えながら立っていた。

「――ねぇさん、そこじゃ濡れるだろう。こっちに1人くらいは入れるぜ」

 甚六が声をかけると、藤色の上品な小袖の陰から、面長の白い顔が覗いた。
 年の頃は、22、3か――年増と呼ぶにはまだ若い。商家か武家の若女房といった風情だ。

 ――女独りで、なんだってこんなひなびた山寺に……?

 甚六は訝ったが、とりあえず若い女と軒下で雨宿りというのも悪くない。

「ほら、こっちを空けますんで……何もしやしませんから」

 鼻の下が伸びていることを悟られないよう、殊更猫なで声を出した。

「――あい、すみません……」

 細い鈴の音が震えている。白百合のような華奢な手を伸ばしてきたので、甚六は武骨な浅黒い手で、引き上げた。
 すぐ側に女が身を寄せる。フワリと、桃のような甘い香が匂った。
 久しく女の香などとは縁がない。しかも品の良い女盛りの艶やかな色香。

 ――こりゃあ、とんだ果報だぜ。

 下心を抑えつつ、甚六は女の細腰に腕を回した。

「……おやめくださいまし」

 女は身をよじったが、甚六はがっちり抱いて離さない。

「こんな所で何もしねぇよ。もっと寄りな、濡れちまう」

 着物の上から柔肌が分かる。その感触だけで、とりあえず、今は勘弁してやろう。

 ビカッ……! と稲妻が夕空を走る。

「――ヒャッ!」

 瞬間、女が甚六にしがみつく。

 ――へへっ……ありがてぇ。

 女の顔が甚六の胸に押し付けられて、思わず口元がニヤケた。

「……時に、ねぇさん。こんな場所に独りで来たのかい?」

 女の震えが収まるのを待ちながら、甚六は優しく話し掛けた。
 雨音が沈黙を打ち消している。

「――はい。亡くなった母の命日なので、こちらに参った次第です……」

「へぇ……おっかさんの墓参りか」

「貴方様は、何故こちらに?」

 甚六は、ちょっと返事に詰まった。
 正直を言うと、御上の追っ手をまいて山道を越え、半ば迷った挙げ句、偶然たどり着いたのだ。

「商いの使いの帰りなんだが……どうやら迷っちまってな」

 商い、などと言いながら、甚六は身一つだ。
 下手な嘘だが、甚六の頭では精一杯の答えだった。

「まぁ。それはお困りでしょうね」

「いいや、ねぇさんに会えたんだ、むしろ幸運だ」

「……まぁ……ふふふ」

 段々、女は甚六に慣れたのか、身を寄せたまま笑みを浮かべた。
 艶っぽい仕草。うなじの後れ毛。襟元から覗く肌襦袢。

 ――あぁ、こんな雨なら悪くねぇな。

 甚六の身体がじわりと火照るのに、女はよほど冷えていたのか、なかなか熱が伝わらない。

「――旅の方……こんな話をご存知ですか?」

 雨音を押し退けて、女が静かに語り始めた。

「うん……?」

「この辺りに、古くから伝わる話です」

 間近に見下ろす女の表情は、よく分からない。
 薄暗い雨の宵。夜の帳がヒタヒタと広がっていく。

「昔、ある男が道に迷い、偶然たどり着いた山寺のお堂の中で休んでいると、夜半過ぎに扉を叩く音がしたそうです」

 まるで今夜の自分とそっくりだ。甚六は、無言で促した。

「男が扉を開くと、月明かりの中に女が独り。招き入れ、程なく二人は契りを交わしたそうなのです」

 俺も、おめぇと……などと甚六は邪な想像を巡らせる。

「……女は、近くの山中に居を構えておりました。そこに男を連れて行くと、しばらく睦まじく暮らし、やがて女は身籠りました。ところが、男は旅の者。郷里に一度戻らなければならず、泣く泣く女の元を去りました」

 訥々と、女は寝物語のように続ける。
 遠くなる稲光を眺めながら、甚六は黙って聞いていた。

「半年ほど経ち、やや子が産まれる前にと、男は女の元に向かったのですが……山に近い村まで来ると、妙な噂を聞かされたのです」

「――妙な噂?」

 ぽつり、甚六は問い直す。いつしか、この女の話に引き込まれていた。

「ええ……。山道を通る旅人が、悉く消えてしまうというのです。村人は、もののけの仕業だから、男にも行ってはいけないと、止めるのです」

 ――もののけ、か。ぞっとしねぇな。

 山寺の周囲が、闇に沈む。
 こんな状況で怪談話とは――先刻まで震えていた女の口から紡ぎ出されることが奇妙に思えた。

「男は、村人の制止を振り切って、山中に分け入りました。女の住まいが見えて来た時――若い男の悲鳴が聞こえてきました」

 思わず、甚六は唾を飲んだ。
 上下した喉仏を、チラリと女が一瞥した。

「そっと……男が裏口から覗くと、女は恐ろしい鬼の形相で、若い男をムシャムシャと貪り喰っているのです」

 甚六は、雨とは異なる嫌な湿気が背中辺りに滲むのを感じた。

「男は、自分が契った女の正体を知ると、夜半まで草原に隠れ――女が寝静まった頃を見計らって、自らの刀で切り殺したのです」

 また、雨足が強くなってきた。
 月のない夜だ。
 腕に抱く、目の前の女は、やけに白く見える。

「男は、産まれてくるはずのやや子も魔の者に違いないと、事切れた女の腹を裂きました。けれども、腹に子はありませんでした」

 スッ……と涼しい夜風が首筋をくすぐる。
 女の静かな語り口に、思わず身震いした。

「あら……ふふふ……」

 女が甚六を見上げた。切れ長の三日月のような双眸が、妖しく細められた。

 ――なんだってんだ……この俺が。盗賊頭も務めた『般若の甚六』様が……ざまあねぇ……!

「ねぇ、甚六さん」

 女は、甚六を見上げたまま、ニイッと微笑んだ。

「あんたのお父っつぁんは、五兵衛さんという名でしょう?」

「おめぇ……なぜ、それを……?!」

 油汗が、額にびっしり吹き出していた。
 気づくと、女がガッチリと甚六を抱き締めている。

「――やい、離せ、この……!」

 振りほどこうと腕っぷしに力を込めたが、何としても離れない。
 この細腕の、どこにそんな力が――。

 ――ピカッ……!

 その時、雷光が走った。

 甚六をしっかりと捕らえる女の背後に、影がない。

「この――化け物め!!」

 甚六は叫んだ。
 叫んでも、誰も助けがないことは分かっていたが、声を挙げずにはいられなかった。

「五兵衛さんは、あたしのお父っつぁん。……ねぇ甚六さん――今夜は、おっかさんの命日だと言ったでしょう? きっと呼んでくれたのね……」


 翌朝。

 雨が上がった弥勒堂の軒先で、血だらけの着物が見つかった。

 目撃者の証言で、その着物が、麓の村の油問屋で残虐な強盗殺人を働いた『般若の甚六』が身に付けていたものと確認された。

 しかし、甚六の姿は、ついぞ見つかることはなかった――。


【了】
「あれ……父さん、また出張なの?」

 リビングに降りてきた僕は、食卓テーブルの脇に置かれたバーバリーのボストンバックに気がついた。

「そうなの。また急に決まったんだって」

 キッチンから、慌ただしく母さんの声が返る。
 朝食と同時並行で弁当を作る、いつもの朝の光景だ。

「おう、サトシ、早いな」

 洗面所から戻った父は、ソファの背にかけてあったダークグレーの地味なスーツに着替える。

「うん、試合が近いから朝練。父さん、どこ行くの?」

「あー、岡山の倉敷だ。何かお土産買ってくるよ」

 食卓から玉子焼きを1つ摘まんで、父さんは口に放り込んだ。

「『きびだんご』は、もういいわよ。どうせなら、何かご飯のおかずになるものを買ってきてちょうだい」

 僕と母の2人分の弁当箱にシャケを詰めながら、母さんが笑った。

 出張の多い父さんは、行った先で必ず家族にお土産を買ってきてくれる。
 ところが、いつもセンスがなく……駅の売店で一番前に積まれているような『銘菓』をぶら下げて戻るのだ。

「遊びの旅行じゃないんだぞ」

 コーヒーを一気に飲んだ父さんは苦笑いした。

「試合、いつだっけ?」

「今度の土曜日。……いいよ、いつものことだし」

 うちは共働きだから、試合を見に来てもらうことは、はなから諦めている。
 僕が、昨年の秋からセカンドでレギュラーを取ったことも、多分父さんは覚えていないだろう。

「……ごめんな、頑張れよ」

 それでも両親は、彼らなりに僕のことを気にかけてくれている。
 分かっているから、いいんだ。

「うん。父さんも気をつけて」

 僕の頭をくしゃっと撫でて、それから母さんに「いってくる」と言葉を交わすと、父さんは出掛けた。

「――ほら、あんたも行かなくていいの、サトシ?」

「わっ! 行ってきまーす!」

 リビングの時計を見て、僕も慌ててコーヒーを一気飲みする。

「サトシ、車に気を付けるのよー!」

 母さんの声を背に、僕は玄関を出た。

-*-*-*-

 父さんが出張の夜、僕には楽しみがある。

 書斎に籠り、僕はデスクトップのPCにかじりつく。

 ――母さんは、まだ入浴中だ。

 『宿題の調べものをする』と言えば、両親はPCの使用を快諾した。

 父さんのPCは、キッズブロックがかかっているから、中学生の僕がアクセスしても大丈夫だと安心しきっているのだろう。

 宿題ではないけれど――『調べもの』は、嘘ではない。

 高校に入るまで、スマホがお預けだから、最近興味が高まっている女性の身体についての知識は、このPCが与えてくれている。

 電源を入れると開くのは、窓ではなく、未知の扉だ。

 ブロックを避けて開くアートサイトの裸婦像を見つめながら、僕はクラスの女子たちや、好きなアイドルも、同じビジュアルなのかとドキドキしていた。


 ――トントントントン……。

 細く開けたドアの隙間から、母さんが階段を上る足音が聞こえてきた。

 急いで、バッググラウンドに用意していた『国会のしくみ』というサイトを開く。

「……サトシ、まだ宿題やってるの?」

「――あ、母さん」

 書斎のドアから覗く母さんを振り返る。
 ボディーソープの薔薇の香りがくすぐったい。

「明日も朝練なんでしょ? 早く寝なくていいの?」

「うん……もう少しで終わるよ」

「ちゃんと電源消してね。先に寝るわよ」

「うん。おやすみなさい」

 母さんは、保険会社の外交員だ。
 1日中歩き回ることもあるらしく、今夜もくたびれた顔をしている。

 書斎のドアをパタンと閉じて、母さんは廊下の奥の寝室に入っていった。

 時計アイコンを見ると、22時を回っている。

 今夜は、このくらいにしようかな……。

 『国会のしくみ』サイトを閉じると、ベッドに横たわる裸の女性が現れる。
 ゴヤという人が描いた『裸のマハ』という作品だ。
 彼女の白い肉体をもう一度眺めると、僕は好奇心の扉を閉じた。

 シャットダウンしようとした時――見慣れないアイコンがデスクトップに残っていることに気がついた。

 それは、真っ赤なハートのアイコンで、ショートカットになっている。
 今夜、僕が妙な拾い物をした訳ではないみたいだ。

 迷ったが――クリックしてみる。

 スッ、と開いたのは、どこかのサイトのトップページだ。
 真っ黒な画面に、鉄の扉の画像が浮かぶ。

【WELCOME!】

 扉の前に赤い英単語が現れた。

 ドキドキしながら、文字をクリックする。

 【PASS WORD:□□□□】

 4桁の数字を入れる空欄が現れた。
 迷いながら、僕は父さんの誕生日の数字を打ってみた。

 【パスワードに誤りがあります】

 ……そう単純ではないらしい。

 4桁の数字なら、10の4乗で1万通り。
 今、1つ間違ったから、あと9999通り試せば、いつか扉は開くだろう。

 僕は、赤いハートのサイトを閉じた。

 アクセス履歴を削除して、PCをシャットダウンすると、書斎を後にした。

-*-*-*-

「結局また『きびだんご』なの?」

 父さんが、出張先から買ってきたお土産を食卓に広げる。
 それを見た母さんは、呆れた声を上げた。

「いや、ちゃんと見てみろ。今回のは『マスカットきびだんご』って言ってな……」

「ご飯のおかずになるの、これ?」

 黍粉で作られた皮の中に、新緑色のマスカットがうっすら見える。
 母さんが皮肉を言っているのは明らかだ。

「あー、飯のおかずはこっちだ」

 父さんは、ボストンバックの中からパウチパックを4つ取り出した。
 パウチの袋には【ホルモンうどんの素】と書かれている。

「……ホルモンうどん?」

「ああ、うまいんだぞー。次の日曜日、父さんが作ってやるからな」

 そういうと、父さんは自らお土産のマスカットきびだんごを摘まんで食べた。

 その後ろで、母さんがヤレヤレというように首を振っていた。

 僕も、奇妙な銘菓をパクりと頬張る。
 爽やかな初夏の味が、口中一杯に広がった。

-*-*-*-

 翌週末、父さんはまた出張することになった。

「またなの? 今度は、どこ?」

 【ホルモンうどん】をお好み焼き機の鉄板で炒めながら、父さんは上機嫌だ。

「北海道だ。上手いもん、一杯買ってくるぞー」

 ジャッ……ジューッ!

 食欲をそそる音が、父さんの手元のコテから溢れている。

「今度は、『おかず』を期待できそうね?」

 取り皿を並べながら、母さんは、僕に目配せした。

 土曜日の夜。
 【ホルモンうどん】は『ご飯のおかず』ではなく、『ご飯』そのものになり、リビング一杯に濃厚な匂いを放っていた。

 僕は、昼間の試合でヒットとエラーを1つずつやらかしたが、チームは勝ったので、複雑な気持ちでいた。

 しかし、試合終了後に駆けつけた両親は、スコアボードを見てとても喜んでくれたので、僕も悪い気分ではなくなった。

『よーし、お祝いだ!』

 帰宅すると、父さんは有無を言わせず、お好み焼き機を取り出して、【ホルモンうどん】の準備を始めたのだ。

「雪の予報は出ていないのに、金曜日に行くの?」

 冷蔵庫から缶ビールを2つ、グラスを2つ、食卓に置いて、母さんが尋ねる。

 ちょうど、リビングのテレビが『しばらく好天が続きます』と週間予報を告げていた。

「ああ。接待が日曜日にあるから、土曜日には絶対あっちに居なくちゃダメなんだよ」

 父さんの出張は、次の金曜日に出発して、月曜日に帰って来る予定だ。
 北海道行きの飛行機は、天気によって飛ばないことがあるから、前日現地に着くように出掛けるのだそうだ。

「――さぁ、出来たぞー!」

 見た目は、只の『焼きうどん』よろしくベージュ一色だが、【ホルモンうどん】は予想外に美味しかった。
 鍋終わりのシメのうどんと、焼き肉を足したような味で、僕たちは6人前をあっという間に平らげた。

 家族の笑顔を見て、父さんはとても幸せそうだった。

-*-*-*-

 金曜日までは長かったが、父さんが不在の3日間、僕はPCにアクセスする機会をたっぷり得た。

 母さんが覗いた時に開く真面目なサイトを準備して、いざ――真っ赤なハートアイコンをクリックする。

 【WELCOME!】

 迷わず文字をクリックし、早速『0000』から入力した。

 3日も時間がある。きっと、扉は開くだろう。

 僕は、自分が世界的なハッカーになったような気分だった。

-*-*-*-

 そして、その瞬間はついに訪れた。

 【WELCOME! ENTER→】

「――やった……!!」

 1人、声を殺してガッツポーズする。

 土曜日の、深夜23時半。
 母さんはとっくの間に眠っている。

 僕は、好奇心に膨れてパンパンの胸を抑えながら、【→】をクリックした。

 鉄の扉が、ゆっくりと開いた。

 トップページと同じ黒地の画面に【MENU】という赤い文字。
 その下に、グレーのバナーが3つ、等間隔に並んでいる。
 左から【依頼する】【依頼を受ける】【利用履歴】とある。

 これだけでは、何のサイトなのか、さっぱり分からない。

 とりあえず、僕は【利用履歴】を開いた。

 最新の記録は、今週の火曜日の夜だ。

 【依頼人N村様より、依頼No.00018694を引き受けました】

 その前は、先々週の月曜日の夜。

 【依頼人S川様より、依頼No.00018016を引き受けました】

 履歴を遡るが、こちらから依頼を出した記録はない。

 父さんは、一体何の依頼を受けているんだろう……?

 中学生の僕でも、これが普通の会社関係の【依頼】ではなさそうなことは、察しがつく。
 第一、こんな怪しげなサイトを介して、仕事が入るとは思えない。

 触れてはいけない父さんの秘密を覗いてしまうようで、僕は随分躊躇した。

 好奇心で踏み出したものの、漕ぎ出した岸には戻れないような――そんな予感が沸き出している。

 【MENU→】

 確かに、ここで扉を閉じるという選択肢もあった。

 しかし、僕は後には退けないという覚悟に似た思いに取りつかれ……

 【依頼を受ける】バナーをクリックしてしまったのだ。

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 【新着】依頼No.00020053
 依頼人:M田
 対象:主人
 実行地:兵庫県神戸市
 実行日時:●月▲日 18~20時
 希望方法:船からの転落(ナイトクルーズ乗船予定)
 報酬:成功報酬80万(諸経費別途10万まで)
 詳細、画像は会員専用メールにてお伝えします。

 《依頼を受ける》
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 【新着】依頼No.00020051
 依頼人:K藤
 対象:友人
 実行地:鹿児島県指宿市
 実行日時:●月■日~×日
 報酬:成功報酬30万(諸経費含)
 希望方法:滑落事故もしくは遭難(当日、雪山登山予定)
 連絡は会員専用メールにて。

 《依頼を受ける》
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 【新着】依頼No.00020047
 依頼人:A野
 対象:義母
 実行地:東京都多摩市
 実行日時:●月△日
 報酬:成功報酬100万(諸経費含)
 希望方法:交通事故
 会員専用メールで詳細をお伝えします。

 《依頼を受ける》
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 艶かしい赤いハートが開いた扉の向こうには、人間の殺意と欲望が夥しく"展示"されていた。

 僕は震える手で、もう一度【利用履歴】を開く。

 父さんが引き受けた依頼は、ざっと見ただけでも50件は下らない。

 悪い夢なら覚めて欲しい。

 僕は、開けた扉を全て閉じ、アクセス履歴を削除した。

 日曜日になっていた。

 明日、父さんが帰ってくる。北海道土産をどっさり抱えて……いつもの笑顔で。

 僕は笑えるだろうか――。


【終】