窓の外には雪が降っていました。
世界を少しずつ白く染めていきます。
窓に雪の結晶がふっと張り付いては、すっと消えて行きます。

部屋には加湿器が微かな音を立てながら

二人を邪魔しないように湯気を立てています。

コーヒーの香り

紅茶の色

テレビではヨーロッパの旅番組が流れています。

私と主任は……

黙ったままでした。

沈黙に耐えきれずに、私は話しかけます。

「すみれさんから聞きました。」

「……うん」

「本当ですか？」

「……うん」

「どうしてですか？」

「……」

主任はずっとうつむいたままでした。

冷たい態度
鋭い視線
辛辣な物言い

普段の「主任」に見られるナイフのような切れ味が、跡形も無く消えています。

そして

お茶目な笑顔
愛くるしい瞳
妖しい唇

普段の「ももちゃん」に感じる日だまりのような温かさも、今は感じられません。

そこにいる人は

寂しげで
物憂げで
疲れた

ただの女でした

さっきから私だけが問いかけています。

その言葉はどこにも納められないまま、コーヒーから立ち上る香りと混ざり合って消えて行きます。

「……ごめん。」

「ももちゃん、理由を話して下さい。」

「……」

「僕たち、もう終わりってことですか？」

「ううん、そうじゃない。そうじゃないの。」

「じゃあ、何ですか？」

「時間……」

「時間？」

「時間……時間が欲しいの。」

「時間……ですか？」

「うん」

主任は顔を上げました。何かを決意したときの、あの凛々しさが少しだけ戻ってきています。

「のんちゃん、あのね。　よく聞いてね。　途中で疑問や反論があるかもしれないけれど、とりあえず最後まで黙って聞いていてね。いい？」

「わかりました。ももちゃんが『どうぞ』というまで、相づち以外は打ちません。」

「ありがとう。じゃあ、どこから話そうかしら……。」

　白で統一された部屋。こぎれいでさっぱりしていて、どこか女性特有のあどけなさがところどころに反映された、リビングのソファーに改めて腰を据えると、私は大きく息を吸い、そして吐き出して、主任の次の言葉を待ちました。考えてみれば、私は主任の部屋に初めて入りました。シスレーの別の絵が、この部屋には数枚飾ってあります。

さらに、別な画家の絵が数枚……こちらも風景画ですが……飾られています。

どこかで見たことのある筆遣いでした。

「今回、海外赴任の話を受けた理由は三つあるの。一つずつ話すね。

　一つ目は、自分の可能性や限界を試してみたくなったの。私、ここ数年けっこう仕事を頑張ってきた。そしてそれなりの実績も上げてきた。今回、その私の仕事に対しての評価が海外赴任の支社長としてのオファーだったの。私は前から、女性も男性と同じぐらい、ううん、状況によってはそれ以上の能力を発揮できるとずっと信じていた。そしてそれを実現するために頑張ってきた。それが「支社長就任」という形で実現するのは素直に嬉しい。そして、この先私がどこまで出来るのか、どこまで新しいことに挑戦できるのかを試してみたい。」

主任はここまで一気に話すと、テーブルの紅茶を一口含みました。口紅の色写りを気にして、さりげなく拭き取る姿は、いつもの主任と全く変わりありません。

「はい、よくわかります。」

私も同じタイミングでコーヒーを飲みます。

「私、前にのんちゃんに『海外赴任が決まったら行く？』って聞いたでしょ？　あのとき、実は内々にオファーがあったの。あのとき、のんちゃんだって『挑戦したい』って言ってくれたでしょ！？私、嬉しかった。もしあのときのんちゃんが『ももちゃんと別れたくないから行かない』って言ってたら……少しだけがっかりしたかもしれない。だから逆に、のんちゃんも今の私の気持ち、わかってくれるでしょ！？」

「ええ……まあ。」

私は心の中に割り切れないものを感じていました。あのときの私の返事を担保に自身の赴任の話を正当化している気がしたのは事実です。しかし、黙ったまま聞いていました。

「二つ目……。二つ目は……。のんちゃん、あなたのことなの。」

「僕ですか？」

私は内心

“いよいよ来たな”

と感じました。心が急にキューンと冷たく固まるような、どこかに墜ちていきそうな心持ちになっていきます。

「うん。前にも何度か言ったことあるけど……いろいろな面で、私たちのこれからを見つめ直していきたいと思ったの。これは『別れる』っていう意味じゃ無いのよ！　そこは誤解しないでね。」

「はい。」少しだけ心の縮こまりがほどけていきます。

「年齢、社内恋愛、上司と部下……。私たちが越えなくちゃならないハードルはけっこう多い。それでもなお、私はのんちゃんが好きだし、のんちゃんも私を愛してくれている。だからこそ、ここは一度互いを見つめ直すべきだと思う。私もこんな年だから、いつまでも甘い恋人同士っていう訳にはいかないでしょ。この先もずっとつきあうならば……また別なステップもあるかもしれないし。」

“……結婚”　

ふいに「結婚」という文字が頭をよぎります。

そしてそれはとても素敵なことのように感じられました。

“主任と結婚して……子供と三人で……いいかも”

しかし、それも飲み込んで私はずっと頷くのみでした。

「私、のんちゃんが好きだから……大好きだから……これから、どうすべきか正直に一生懸命悩みたい。この前、すみれちゃんがのんちゃんに告白したのを聞いて、本気で思った。彼女となら、立場も、年齢も、私よりはずっとスムーズ。子供だって作りやすいし。私はもう４０だもの。仕事を考えると諦めなくちゃならない場合もある。だから、そういうこと全てを含めて、もう一度考えたい。わかってくれる？」

「はい、わかります。で、後一つは？」

「うん……」

主任は急にソファーにもたれると、ふと視線を私から外しある絵をじっと見つめました。私もそれにつられて目を移すと、そこにはシスレーと同じ場所を描いたと思われる別の画家の油彩が飾ってあります。シスレーよりも情熱的で、大胆な構図のその絵は、力強さと不安定さを同時に表すような不思議な魅力を持っていました。

「いい絵ですね。」

「うん……私もそう思う」

「シスレーと同じ場所を書いているけれど、モチーフが全く違う。この画家はきっと情熱的で不安を抱えている人でしょうね。でも、きっともっと年を取ったらいい画家になると思います。きっとこの絵を描いた頃は若かったんでしょうね。」

「のんちゃん！……どうしてわかるの！！？？」

「何がですか？」

「この画家のこと……」

「いえ、わかりませんよ。ただ、絵を見てそう思ったんです。そう言えば、誰の絵ですか？　お知り合いの方ですか？」

「……」

主任は黙ったままです。黙ったまま絵を見上げています。その目が少しだけ潤んでいました。

「……ももちゃん？　大丈夫ですか……？」

彼女は少しだけ目尻を押さえると、私に向き直ってこう告げました。

「あの絵を描いた人……私が一度捨てた……元夫なのよ。」

再びあの感覚が襲ってきました。私はソファーに座っていながら、底が抜けた感覚に襲われています。
柔らかな座面は、とたんに大きな口を開けて私を飲み込もうとする、深海から上がってきた怪魚のようでした。

“そう言えば……主任のオフィス肖像画！……あの絵と同じタッチだ！……あの絵の女性は……主任だったんだ！”

私はゆらゆらうゆらめきならが主任の姿が遠ざかるような恐怖を覚え、思わず目を閉じます。

しかし……

閉じた目の先に広がるものは……

……更に深い闇でした。

冬支度（その７）