ある日、一つのニュースが衝撃を伴って社内を駆け巡りました。
「風見支社長(主任のことです)が、会社をやめるらしい……」
特に広報部では大きな驚きと失望が広がっていくのを感じていました。
主任は女性社員にとっては憧れであり、目標であり、そして守護者でした。若く聡明な主任が、肥え太った男性陣を向こうに回して対等に渡り合う姿が、女性の後輩たちに勇気と希望を与えていました。
それだけに、今回の突然の退社は目標がなくなることへの悲しみだったと思います。
もちろん、別な感情も渦巻いていました。主任のことを快く思っていなかった人々はここぞとばかりに主任を公然とののしりだしました。
「やっぱり女は所詮だめだな」
「途中で仕事を投げ出すなんて……」
「あんなに大口叩いていたのに」
確かに、今は何を言われても仕方ない状況ではありました。支社は主任が赴任しても、一進一退の状況で、必ずしも業績を上げたわけではありません。今が正念場というときの突然の辞任劇は、客観的に見れば非難の対象になりえたでしょう。
しかし、私はそれほど驚きませんでした。
あの日、私に元夫の存在を明かしてくれたあの日、主任が泣きながら私に訴えた言葉を覚えているからです。
「本当は私、ありふれた幸せが欲しかった。大きくて、自分の全てを預けてしまえるような人の傍で、 いつもニコニコ笑って、その人の幸せな笑顔を見つめて暮らしたかった。 それが出来るならば全てを捨てたって後悔しない。」
あのとき、私はこの言葉を、私自身への叱咤激励の言葉として受け止めていました。
“お目出たい奴だ!”と読者のみなさんは思われるでしょうね。でも、私は主任が私に“もっと頼れる男になって!”
と尻を叩いていると感じました。
今、冷静に振り返るとあの言葉は私にむけた放った言葉ではなく、一度は手放してしまった運命の人への叫びだったのでしょう。
そして、主任が会社をやめるということは……
彼女が人生の選択をし、未来への決断をし、運命を変えるために走り始めたことを意味していると感じました。
あの別れの日から約1年が経とうとしています。
再び春は巡り、私の20代が終わりをつげる年となっていました。
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時間は、本当に偉大です。
どんな本も
どんな音楽も
どんな映画も
私を癒やすことはできませんでした。
どんな場所も
どんな物も
どんな人も
私を笑顔にすることはできませんでした。
けれど
時間は
時間だけは
私の味方でした。
心に刺さった大きな氷の刃物
私の心臓を射貫き、血をとめどなく溢れさせていた
あの冷たく鋭い刃
誰にも抜けなかったあの凶器
しかし
時間だけは
毎日毎日
私の所のやってきて
そして、
そっと温かい手で握りしめてくれました。
時間が包んでくれたその手によって
あれほど大きな刃物が
少しずつ少しずつ溶け出していくのを感じ、
ちょっとずつちょっとずつ小さくなるのを
私はぼんやりと見つめていました。
死者のように
倒れ込み、動けなくなっていた私の心を
時間だけは決して見捨てずに
抱きしめ、語りかけ、
そして慰めてくれました。
主任が退社の挨拶のために帰って来る……
その話を聞いたときも、私は冷静でした。
そして
あの懐かしい主任に会える喜びと、
そして
本当に
本当に
心の底から愛した人に
別れを告げる日が、すぐそこまで来ていることを
まるで観客席からモノクロのフランス映画を眺めるように
受け止めていました……。
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「久しぶり……」
「お久しぶりです……」
主任と私は、付き合っていた頃よく訪れていた喫茶店で向き合っています。
……主任は少しだけ太っていました。しかしそれは決して悪い意味ではありません。「健康的な美しさ」が加わったと思って下さい。以前の主任もたいへん美しかったのですが、その美は「滝」「氷」といった苛烈で凛とした孤高を湛えた美でした。しかし、今の主任の笑顔には「海」「日だまり」を感じさせるような、柔らかさと寛容を携えた美を纏っているのです。
キュートな笑顔と真っ直ぐ見つめる瞳
白くて細い陶器のような指はそのままでした。
そしてその指、左手の指には……私が贈ったものとは異なる指輪がキラキラと輝いていました。
その光の眩しさに、私が目をパチパチさせながらぼんやりしていると、主任が口を開きました。
「元気だった?」
「はい。元気でした。」
「さっき会社でいろいろ聞いたけど、この1年、すごく頑張っていたらしいね。」
「はい。主任がいつ帰って来てもいいように、全力を尽くして仕事に当たりました。ほめてくださいよ!」
「はいはい。エライ! さすが私が見込んだ男の子だけあるっ!」
「ちぇっ! まだ男の子ですか? いつになったら“素敵な男性”って言ってもらえるでしょうね……。」
「うーん、あと10年ぐらいかな~」
「え~、そんなに待つんですか?!」
まるで付き合っていた頃のように、言葉が淀みなく流れ出していきます。
楽しいひとときでした。
一瞬、まるで昔に戻れたような錯覚すら感じました。
しかし、私にはわかっています。
私自身は、精一杯はしゃいでいる振りをしていること。
何げない会話をすることで、自分の心を見ないようにしていること。
そして
そんな私の心を見抜いて、主任も私の演技に乗っかってくれていることを。
私は次第に心と体が分離していく感覚を覚えました。
ふわふわふわ……
、振り落とされないようについてきてください。