Worship Generation Japan 6thは
本当に幸いな集会でした
参加者として参加してみたかった
とか
あの集会で楽器を鳴らせたことは幸いだった
とか
いやいずれにしろあの場にいた全員がそもそも参加者である
とか
「用いたまえ我が主よ」
とか
色々思わされつつ
すごく長いひどい霊的氷河期が去ろうとしています
アメリカにいていろいろな教会に行った時も
アーバナで2010年1月1日0:01のカウントダウンをしてるときも
じわっ
と、ぬるあったかくはなったものですが
そんなこともなかったものでした
一体
何回の
早天祈祷会を、首のストレッチの時間にしたことか
聖日礼拝を、明日以降の計画立てのために費やしたことか
主の祈りを、お口のストレッチにし
デボーションを、自己満足のための儀式にしたのか
今まで食べたパンの枚数級に覚えてませんが
クリスチャン的に超無気力無関心にすごしていたにもかかわらず
神様は超攻撃的意欲満々に動いておられました
主にとらえらなきゃ
用いられなきゃ
空しくて死んじゃう
死んじゃうのは空しい
そう思ったときに
もやもやが叫びになり
叫びは祈りになり
祈りは賛美とともになり
賛美の中に住まわれる主に
出会いました
もし
『万軍の』主が、わたしのために戦い
『全能の』主が、わたしのために働き
『王の中の王』主が、ひとり子をわたしのために死刑にした
このことの凄みが本当に味わえたら
それだけで生きていけると思った
そして死んでいけると思った
この日記もオチとか無しで終えられると思った


