たいていの場合、自動車で東北自動車道を北上し、一日目に角田市と亘理町にある親戚を回る。
実は、筆者もこの家々を訪問するのは、三十数年ぶりである。
このあたりのことは、詳しく書いても公開する意味があまりないので書かない。
ただ、最後にあった時に幼児だった人が結婚し子どもが生まれていたり、お嫁さんだった人がすでに孫のいるおばあさんにだったりと、ほとんど「浦島太郎」状態になっていたのである。
亘理から七ヶ浜までは、仙台市を通りぬけて、向こう側に行く感じである。
この時、正確な道路地図は持たずに、自動車を走らせていた。
仙台東部道路に乗ろうと思っていると、道路標識に左が「多賀城・塩釜」と書かれていた。
標識に従って自動車を走らせると、その道は、仙台東部道路より東側の一般道。
つまり、大震災の際に、すべて津波にのまれてしまった場所を通る道だったのである。
右を見ると、わずかに残る松林、左右は沼沢地に生える葦のような植物が生えている。
その中を走る片道一車線の道路である。
記憶では、仙台東部道路の所まで津波が押し寄せたはずで、その道路ははるか西側に通っている。
テレビの映像では、この一帯は、壊された家の瓦礫や押し流された船や自動車が散乱していた。
でも、すべて片付けられたのだろう。
広々と続く低地が続いている。
でも、よく見ると、この風景、尋常ではない。
道路の脇にある鉄棒でできたガードレールは、すべてクシャクシャにひしゃげていた。
全部、水の力で捻じ曲げられているのである。
コンクリート電柱も、少しずつずれている。
震災後に建てられたものなのか、それとも元からのものなのか、とにかく微妙に曲がっているのである。
ときたま見える左右の地面は、真っ黒な砂地である。
そして、小さな池ができている。
水路のあった場所は、擁壁のコンクリートだけが残っており、一方の内側にあった土はすべて抉り取られている。
途中、何軒かの家が残っていたが、誰も住んでいなかった。
一階は、すべて何も残っていない。
車道と歩道を分ける縁石も、一部は流されてなくなっており、新しくなっている。
あの縁石、滅多なことでは、動かない。
その縁石も流されているのだ。
走り続けるうち、電柱もなくなった。
交差点の信号が赤になり、車列は停止。
右を見ると、コンビニエンスストアの敷地跡があった。
駐車場には、停止位置を表す白線が敷かれているが、コンビニの建物は、土台が残っているだけ。
よく見ると、周りはすべて、家の跡の土台だけが残っている。
この場所は、尋常な風景ではないのである。
端を何本か渡ったが、そのうちの一本は、震災当日NHKのヘリコプターが震災の津波の状況を中継した場所。
あの時には、周囲に家があった場所であるが、今は何もない。
細い道を走り抜けると、道幅が広がり、仙台新港へ出た。
ここも、テレビで津波が襲った際の映像が良く流れていた場所であった。
決して初めから走るつもりで来た訳ではないが、日の暮れる前に通ったのである。
七ヶ浜の叔母の家に着いたのは、夕方、日が暮れてから。
従妹に通った道を説明した。
「ああ、通ってきたんだ。閖上(ゆりあげ)街道。」
たくさんの人が逃げ遅れて亡くなった閖上の町を通る街道である。
今、地元の人は、あまり使わないのだそうだ。
聞いてみると、あの通りの沿道では、名取市や仙台市の人たち、合わせて千何百人の人が亡くなっているのだそうである。
夜は、とてもじゃないが、怖くて走れないのだそうだ。
この道ではないが、別の橋では、震災後、通れるようになったのに、しばらくしてからまた封鎖された。
何故かと言うと、警察官を始め、多くの人たちが橋のところで亡くなった人の幽霊を見てしまったためなのだそうだ。
「服が濡れているので、着替えをくれないか。」と言うそうなのである。
一見したところでは、「震災の傷跡」は、ほとんどわからなくなっている。
でも、人々の心の中には、たくさんの人たちの無念な気持ちが残っている状態なのである。