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ローマ人への手紙1章20節
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
解説1
http://www.berith.com/shuhou/roma/010-19980809.shtml
クリスチャンでない社会は、神についての真理を知っていながら、その真理に逆らって生きているということをパウロは18節のところで話している。けれども、それがどういうことなのかを19節からのところでパウロは説明している。クリスチャンではない人たちが知っている真理とはどのどんな真理なのか。不信者はどういう真理に対して逆らっているのか。なぜ、「彼らは真理を知っている」と言えるのか。何かの違反行為を責められると、その律法について知らなかったことを理由に無罪を主張するというのが罪人の典型的な反応である。それで故、この問いに答えておかなければならない。パウロの答えは次のようなものである。即ち、罪人が無知であるなら、その無知は咎められるべきものである。なぜなら、無知は罪人の自然の状態ではないし、自然の状態では有り得ないからである。無知は、神が与えた逃れることの出来ない豊かな啓示(実に罪人を取り巻く全環境を構成している啓示)を敢えて阻むことによって闘って勝ち取らなければ得られない無知である。19節からの箇所でパウロはこの問題に対して答えている。
なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
抜粋
神の啓示されるものが厳密には何であるのかを19節でパウロは一般的な言い方で「神について知り得ること」と言っているが、20節では更に特別な言い方で「神の神性、神の永遠の力、被造物によって知られ、はっきりと認められる.....」と言っている。これは非常に豊かな意味を持つ表現である。ただ単に「何かの神が存在する」というのではない。「すべての人は神が存在することを知っている」という意味でもない。確かにすべての人は神の存在を知っているけれども、パウロはそれ以上のこと、即ち、「全ての人は神の永遠の力と神性を知っている」と言っているのである。真の神についての人格的な知識というものがここに表わされている。「神は存在するのか存在しないのか」というレベルの話ではなく、「どういう神がおられるのか」を語っている。21節でも表現されているように、彼らは「神を知っている」のであって、「神について知っている」とか「神がどのような類の神なのかを知っている」ということではないのだ。その神とは誰なのか。つまり、真の神は人格的なお方なのである。
この「人格的」という言い方も神については不適切であるが、他の言葉がないので「人格的なお方だ」と言うしかない。これは「人格(personality)」の話ではない。むしろ「神格」と呼ぶべきものであるが、正しい理解のためには新しい日本語を作らねばならないと常々思わされている。英語の "person"という言葉も、昔のラテン語の「ペルソナ」という「マスク」を意味する言葉から来ているが、それも表現としては不十分であり、その意味も歴史の中で変わってしまっているので、もともとの意味と違う意味で私たちは "person" という言葉を使っている。それ故、言葉としては不十分である。日本語も漢字では「人格」と書くので、どうしても「人」について考えてしまうのは避けられないだろう。「神格」という言葉を使うにしても、こんどは読者が"personality"という意味において考えてくれるかどうかが問題となるので、理解しやすいということでやはり「人格」という言葉を使うしかないと思う。
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ここで、全く内容に関係ない所で脱線。
あれ?「ペルソナ」?=「マスク」???
だから、マスクを現した舞台装置だったのか・・・・
って、あれ、もしかしてリダが考えたツアータイトルだったのかしら?
構成とかも、かなり口だしているのかも・・・・?という気がしてきた。
というか、この流れで、ペルソナの名前がでてきたら、無視できないんですけど(汗)
完全に「UNLIMITED」の流れでキーとなっていると考えていたツアーだよね。
なんだろう・・・この符号・・・・
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神の場合、神御自身と面と向かって語るのと同じほどに神の性格や雰囲気などはすべて私たちに啓示されているのである。それは、深く、豊かに、広く、はっきりと啓示されている、とパウロは言っている。「神について知り得る」という言い方はかなり強い。確かに、私たちには知り得ない領域というものがある。神は私たちの知識を無限に越えるお方であり、無限なお方である。神についての知識が無限に増えたとしても、知り尽くせない部分はまだ無限にある。人間にとって神の無限は絶対的なものである。復活してから永遠の天国に入っても、永遠に神は御自分を私たちに表わしたもうのである。私たちは、いつも神について永遠に新しいことを見る。新しい味を知り、新しい色彩に触れ、新しい音を聞き、永遠に尽きることのない新鮮な驚きに出会う。永遠に新しいものに直面しても、神について知らない部分は無限にある。神の豊かさはそういう意味で私たちの理解と想像を無限に越える。だから、「神について知り得る」という言い方をする時に、パウロは知り得ないその無限な部分をも指していると同時に、どれほど豊かな啓示が被造物を通して与えられているのかについて語っているわけである。
私たちは、「神の永遠の力と神性」という表現を神についての知識を広く指すものとして理解すべきである。これらの言葉を「一神論と全能」というように最小限の意味にとどめてしまってはならない。確かに一神論と全能は含まれている。しかし、被造世界はただ神が存在し、力ある御方であること以上に遥かに多くを神について啓示している。啓示がどれほどのものかについてよりよく理解するためには、啓示の手段についての考察が有効であろう。
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ここまで続いてくるともう、笑えてきた。無限無限って何回でてきたか・・・・
なるほど、やっぱり、私の読みは間違ってなかったのかも。
「ペルソナ」があっての「UNLIMITED」そして、それはやっぱり、
すべて聖書に則って名づけられていたんですね。
いつも神について永遠に新しいことを知る
誰かさんがインタビューで答えていた答えに酷似しているね。
でも、この聖書ツイはファンボのツイ、この2人の符号をどう説明するのか。
それこそ、「神についての真理(実際は2人の仲がどうなのかという事)
を知っていながら、その真理に逆らって生きている」 これに尽きる気がするんだけど
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そのように、すべての人間は、毎日の生活の中にあって実に豊かに神について教えられている筈である。神の御業を毎日見ており、神の声を常に聞いている。ある意味で、いつも神の御顔を見ている。神の力をいつも感じている。しかし、すべての人間がすぐさま神を知る結果になるわけではない。既に見たように、パウロは人間が「不義をもって真理を阻む」こと、そしてそれ故に皆が「神の怒り」を自分の身に負っていると言っている。人間はみな罪人なので、それを全部消そうとする。その現実から逃げようとする。それで心は鈍く成り、深く感じなくなってしまう。それで、礼拝につながらない。
その状態をパウロは次のところで説明している。神が、そこまで豊かに御自分を表わしておられるので、「彼らに弁解の余地はない」のである。つまり、罪人は、裁きの日に神の御前に立つ時、「私はあなたを知りませんでした」と言うことはできない。裁きの日に、神の御前に立つ時、生まれた時からずっと知っていた方の顔を見るのである。裁きの御座におられるキリストに直面するとき、それは全く知らないものを見るようなものではない。よく知っている顔を見るのだ(「顔」とは比喩的な言い方である)。「確かに自分はずっとこの御方を知っていた」と、クリスチャンではない者たちすべてはその日には認めざるを得ない。よく知っていたのに、逃げていた。だから弁解の余地はない。「私は、あなたの事を知らなかったし、誰も私に教えてはくれなかった。私には知るチャンスはなかったので、悔い改めてあなたを信じることができなかったのです」というような口実を誰一人言うことはできない。
それで、次のように言うことができよう。人間はある意味で神を知っているが、別な意味では神を知らない。しかし、彼らの無知は意図的であり、罪によるものなので、弁解の余地はない。そうパウロは言っているのである。これが福音の始まりである。だから神は怒っておられる。ここまで豊かに、ここまではっきりと神は御自分を表わし続けておられるのに、罪人はそれを嫌い、拒み、そこから逃げる。それ故、神は罪人のそのような反応に対して怒り給うのである。これが19節と18節のつながりである。パウロが引き続き示していくように、それ故に彼らは罪に定められ、福音を必要としている。人間はただ信仰のみによって神の恵みである救いをいただいて義となることができるのである。
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やっぱり、これでしょう?
審判の時が来たとき。
人間はある意味で神を知っているが、別な意味では神を知らない。しかし、
彼らの無知は意図的であり、罪によるものなので、弁解の余地はない。
そうパウロは言っているのである。これが福音の始まりである。だから神は怒っておられる。
ここまで豊かに、ここまではっきりと神は御自分を表わし続けておられるのに、
罪人はそれを嫌い、拒み、そこから逃げる。
それ故、神は罪人のそのような反応に対して怒り給うのである。
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なんだか、大変キリスト教徒の方には悪いんですが、
今回はすべてにおいて、妄想翻訳で違う文章(解釈)で読めてしまう私です(笑)
あえて妄想変換部分は書き換えませんが、サンチュペンなら
私が何を言わんとしているのか、わかりますよね?(^^)