元は右利きだったが、4歳の時に右腕を骨折した際、プロ野球選手に育てたいという父親の意向から左利きに矯正された。育英高等学校では1965年春の選抜へ出場。2回戦で敗れる夏の甲子園出場はならなかった。

1965年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団。新人の年にオールスターゲームに出場。

入団1年目に10勝、以後15年連続二桁勝利、翌年からは5年連続20勝以上をあげ、押しも押されもせぬ近鉄のエースとなった。1968年ノーヒットノーランを達成。1969年に24勝で最多勝1971年2度目のノーヒットノーランを記録した。1967年から1972年にかけて6年連続で最多奪三振。鈴木本人によると「入団当初はノーコンでね。1年目の開幕直後には四球連発で二軍に落とされたこともある。制球力を付けられたのは日生球場のお陰やで。ホームランを警戒して低めをつく投球を、球場が教えてくれた。2度のノーヒット・ノーランは日生がくれた褒美やった。」と当時を振り返った。




その後、1974年に監督に就任した西本幸雄の指導により、力任せの直球主体の投球を改め制球・配球を重視する頭脳的なピッチングを構築していく。当初は西本に反発しが、やがて西本が自分とチームのことを本気で考えていると気づき、その指導を受け入れていった。この年は4年ぶりに20勝以上を挙げ、防御率も2.26の好成績を残す。奪三振数は減少したが、無駄な四球と失点も減少した。1977年には200勝を達成、20勝で最多勝を残した。


1978年、25勝で2年連続最多勝、防御率2.02で最優秀防御率を獲得した。同年に当時の日本新記録となる10試合連続完投勝利を記録し、見事な投球で往年の剛球が蘇り、最多奪三振・最多完封も記録し、「五冠」のうち勝率を除く4つの部門でリーグトップの成績を残した。この年は阪急が逆転優勝を遂げて3年ぶりの半期優勝を逃した。試合後、辞意を仄めかした西本監督に対して「監督をやめないでくれ! オレたちを見捨てないで下さい」と鈴木は絶叫。他の選手もそれに賛同したことで西本は留任し、翌年悲願の初優勝を達成、翌々年も優勝を果たした。

1981年は5勝11敗となり、シーズン終盤に引退を決意して西本に伝えると「つらいほうの道を選んでみい。楽なほうは、いつでも選べるんや」という返答を受ける。

鈴木は現役を続行し、1982年からは再び10勝台を記録するとともに、2年続けてリーグの最多無四球完投投手となった。


1984年通算300勝および3000奪三振達成。


この年、公共広告機構コマーシャルに起用され、「投げたらアカン」という言葉が流行語大賞を受賞した。


1985年現役引退を表明。鈴木は引退を西本幸雄に報告に行くと、西本からは勝負する人間の目ではないと指摘され「ご苦労さん」と声を掛けられた。]

鈴木引退の報を聞いた阪急の監督上田利治は、引退の花道にとオールスターゲーム(近鉄の本拠地である藤井寺球場での初開催も予定されていた)への出場を鈴木に持ちかけるも辞退した。鈴木によると、上田に「パ・リーグの選手皆で胴上げしたるから出てくれ」と言われたが「有り難い話やったけど、歴史のあるオールスターを俺一人の舞台にしたらアカンと思って断った」という。

通算317勝は歴代4位。彼を最後に日本プロ野球には300勝投手は現れていない。

現役時代の背番号1は1985年以降、パ・リーグ唯一の永久欠番となっていたが2004年シーズン終了後の近鉄とオリックスの合併(オリックス・バファローズ誕生)により失効とされたが、オリックスでも背番号1を永久欠番とする考えがあり、鈴木に電話で伝えるも、鈴木本人が「自らの永久欠番はあくまで近鉄でのもの。背番号1をどうぞ使ってください」とし返答。


あまり強く無かったころの近鉄で317勝は凄いびっくり

大エースですね❗️





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