大鉄高等学校では、1年生から打線の中心として活躍。1959年(1年生)の秋季近畿大会府予選で本塁打を放ち注目を浴びる。1960年春の選抜への出場したが1回戦で逆転負けを喫した。

同校の野球部は藤井寺球場で練習を行うことがあり、そこで当時近鉄のスカウトの誘いを受け、1961年に高校を2年で中退して近鉄に入団した。母子家庭で、親孝行を考えてのプロ入りだった。

近鉄は1958年から1962年まで5年連続のリーグ最下位であり、土井が入団した1961年にはプロ野球記録となるシーズン103敗を喫するなど、「パ・リーグのお荷物」とすら言われる有様だった。1961年オフに近鉄の監督に就任した別当薫は、プロ入り1年目にして整理対象(解雇する候補)となっていた土井の長距離打者としての才能を見出し、四番打者に起用。「18歳の四番打者」と話題になった。しかし、1962年の土井の成績は打率.231・5本塁打であり、「弱小球団の単なる話題作り」と非難を浴びたこともあった。土井自身も重圧に耐えかねて出場メンバーから外すように願い出たこともあったが、別当は「打てないお前より、使っている俺のほうが苦しい。近鉄が強くなるためにはお前の力が必要になる。だから、数年先のためにお前は外さない」と拒否し、起用を続けた。

土井はその期待に応え、別当が近鉄監督3年目となった1964年、3割30本100打点には僅かに届かなかったものの、リーグ最多安打を記録し、98打点を記録するなど成長する。その後も近鉄の中心打者として長らく活躍した。これらの経緯から、土井は別当を師匠と仰ぎ、別当は結婚式の際には父親のいない土井の父親役を務めている。

1964年の28本塁打以降、6年連続で20本塁打を記録。1967年オールスターゲームではMVPを獲得、新時代の「実力のパ・リーグ」を見せつけた。同年は打率.323で2位 93打点も2位に終わりタイトルを逃す。1971年は打率.309、40本塁打、113打点と自己最高の成績を残す。なお、近鉄在籍時代に記録した通算打点960は近鉄球団最多記録となった



1974年オフ、足と肩に衰えがあり守備に不安があったためトレードで移籍。移籍1年目に34本塁打を放ち本塁打王の初タイトルを獲得した。このトレードに関して、当時監督だった西本幸雄が2003年のインタビューにて、トレードを決めた1週間後にパ・リーグが翌1975年からの指名打者制導入を決定したため「土井は守らなくてよくなった、大失敗だと思った」と後悔したことを語っていた。

1977年 2000安打達成。

1978年オフに球団が国土計画に売却された後も、若い選手が多い西武の精神的支柱としてチームを支えた。

1981年、怪我のため出場試合数が減り、根本陸夫監督の退任に伴うチームの若返り策に理解を示し、現役を引退した。

通算安打2452本 通算本塁打465本


18歳の4番打者

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