浄土真宗の教えを表す衝撃的な言葉に「悪人正機(あくにんしょうき)」があります。
「悪人正機」とは、悪人こそ救われる、ということです。
では、悪をしたほうがいいのでしょうか?
そんなはずはありません。悪人正機は一体何を意味しているのでしょうか?
悪人正機とは
まず、「悪人正機」とはどんなことかというと、悪人が正客ということで、悪人こそ救われる、ということです。
「悪人」は、悪をする人ですから、やった悪によって、悪因悪果、苦しい結果を受けて苦しんでいます。(因果の道理)
ですから、「悪人」といえば苦しみ悩んでいる人、苦悩の人ということです。
だから「悪人正機」とは、苦悩の人が正客ということです。
善人は善因善果ですから、放っておいても往生は叶います。
しかし悪人は自らの力では往生は叶いません。
なので悪人は阿弥陀仏の正客なのです。
では、苦悩の人が正客と言われたのはどなたでしょうか。
それは、阿弥陀仏の仰せだからです。
つまり阿弥陀仏の本願は悪人正機なのです。
「苦しみ悩んでいる人が正客だぞ」
そういう者を助けると言われたのが阿弥陀仏の本願です。
阿弥陀仏の本願=悪人正機
浄土真宗は阿弥陀仏の本願を明らかにされています。
浄土真宗の教えは悪人正機です。
歎異抄の悪人正機
悪人正機をいちばん印象深く、多くの人に知らせたのは『歎異抄』です。
『歎異抄』とは、親鸞聖人のお言葉をお弟子が書き残したものです。その第3章にこうあります。
善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや悪人をや
(『歎異抄』第3章)
これが歎異抄でも特に有名な歎異抄第3章の書き出しです。
これは普通の常識では理屈に合いません。
「善人でさえ助かる。悪人ならなおさら」という意味です。
これは皆を驚かすのに十分です。
世間の常識では、
「悪人でさえ助かるんだから善人ならなおさらだ」
と思うのが普通です。
倫理道徳では悪人は善人より助かり難いというのが常識です。
ところが『歎異抄』では、その常識をぶち破って反対のことを言われています。
倫理道徳、私たちの考えから言うと、悪人でさえ助かるんだから善人ならなおさら。
こうでないと納得できません。
反対なら倫理も道徳も間違いだということになってしまいます。
ではなぜ常識とは真逆のことを教えているのでしょうか。
それは
浄土真宗は阿弥陀仏の本願をご本尊にしているからです。
阿弥陀仏の本願とはこういうものなのです。
世間の常識を皆否定してしまうところから始まるのです。
阿弥陀仏の本願は
「善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」です。「善人でさえ幸せになれるのだから、悪人はなおさら幸せになれる。」のです。
(『歎異抄』第3章)
阿弥陀仏の本願は私たちの大前提になっているものを否定されるんです。
その阿弥陀仏の本願を教えられたのが浄土真宗です。
どうしてこういうこと言われたのでしょうか。
阿弥陀仏の御心は悪人正機だからです。
悪人を助けるために建てられた本願なのだから悪人正客だから悪人でも助かるのです。
真実信心のない人が聞くと、阿弥陀仏が全ての罪深い者を救うという本願を、罪を犯しても許されるという誤った解釈に繋がる恐れがあります。
しかし、これは阿弥陀仏の本願の本質を見失うことに他なりません。
阿弥陀仏の本願は、罪を犯すことを許容するのではなく、罪を犯しても救われるという慈悲の心を表しています。
阿弥陀仏の本願の本質とは上記のような意味ですので、当時「歎異抄」を目にした者の中には、本質を誤解して
念仏さえ称えていれば、取り立てて善行をする必要もなく、悪行を犯しても阿弥陀仏に助けられる
「弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。(歎異抄13章)」阿弥陀仏の本願が不思議な力ましますからと言って、悪を恐れない者を本願ぼこりと名付けて、そうした人々は往生できないと言う人々がありますが、これは一つには、善人悪人全ての人を救い給う本願を疑っている姿であり、今一つには、人間の為す善業悪業は全て前の世からの宿業の催すものである事を知らない人の言葉であります。
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに、別の子細なきなり。『歎異抄』第二章私親鸞と致しましては、ただ念仏をして阿弥陀仏に助けられて往生できるという、師の法然がおっしゃったことをこうして信じることより他に、別の理由などはないのです。
ここで間違ってはならないことは、法然上人の念仏も親鸞聖人の念仏も、どちらも他力の念仏であり、念仏称えて助かりたいという自力の念仏ではないことは押さえておかなければなりません。
歎異抄の最も古い写本は、蓮如上人の書写されたものです。
その蓮如上人の書写には、奥書(おくがき)がつけられています。
右この聖教は、当流大事の聖教たるなり。
無宿善の機に於ては左右無く之を許すべからざるものなり。
釈蓮如
(意訳)
この『歎異抄』は、浄土真宗の大事な聖教である。仏縁浅き人には、誰彼となく拝読させてはならぬものである。釈蓮如
歎異抄は「カミソリ聖教」
仏教の本の中でも、歎異抄は、その点が際立っています。
歎異抄は、昔から「カミソリ聖教」と言われてきました。
なので蓮如上人は「歎異抄」を禁書として厳しく無信者への閲覧を禁止していたのです。
歎異抄を「カミソリ聖教」と言われるのは、仏教をよく理解している人が読まないと、とんでもない読み間違いをするところが非常に多いので、特に「カミソリ聖教」と言われています。
私たち令和に生きる者にとって、歎異抄は親鸞聖人を理解する書物として、気軽に書店で購入できますが、その美しい文体に魅了されて、浄土真宗の本願他力の神髄を見誤ってはなりませんね。