煩悩具足の凡夫とは、親鸞聖人が人間の本質をみごとに言い表したお言葉です。
歎異抄後序にも
「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
(歎異抄後序)
「火宅(家の軒先に火のついた様)のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ」
と人間の本質を見事に言い表しています。
人は、何かを信じなければ生きていけません。
しかし、この世は全て無常であり、信じたあとから裏切られていきます。
しかもそんな必ず裏切る「そらごと・たわごと」しか知らない「煩悩具足(煩悩100%)」がすべての人間の実態なのです。
本来人間はみんなどこかに煩悩を抱えて生きています。
理性のある人は、その煩悩を表に出さないように気お付けているから、分からないだけで、全人類が等しく持っているものなのです。
しかし斎藤知事は、その煩悩を隠すこともなく、本能のおもむくままに行動したので、みんなから批判を浴びているのですが、それが本来の人間の姿なのかもしれません。
108の煩悩があることは、除夜の鐘の音を聞いて知っている方もおられることでしょう。
108とは満数であって、数えきれない数を表します。
その中でも仏教では三つの煩悩が最大の毒として三毒の煩悩として教えてゆかれました。
では「三毒」とは何かといいますと、欲、怒り、ねたみうらみの3つです。
欲望のことを仏教では「貪欲(とんよく)」といいます。
怒りのことを仏教では「瞋恚(しんい)」といいます。
ねたみやうらみのことを仏教では「愚痴(ぐち)」といいます。
無ければ欲しい、有ったら有ったでもっと欲しい。貪欲
欲望が邪魔されると怒りに変わり、周囲を怒鳴り散らす。瞋恚
因果の道理を知らず、そのことに妬む心・恨む心が湧きおこる。愚痴
この三毒の煩悩 斎藤知事にすべて当てはまると思いませんか。
斎藤知事は典型的な煩悩具足の凡夫ではありませんか。
その知事を批判している方々も煩悩具足の凡夫に変わりはありませんが、その
煩悩をストレートに出すか、理性で抑えているかの違いだけなのです。
見方を変えれば、煩悩を隠して生きている私たちより素直に煩悩を表に出す斎藤知事のほうが正直なのかもしれませんね。