お釈迦さまの自殺と自殺幇助の禁止
お釈迦さまが自殺を禁じられたのは戒律によるものですが、いくつかの経典にその由来まで伝えられています。
それはどんなことかというと、お釈迦さまはある時、「不浄観」を説かれたことがありました。
「不浄観」とは、私たちは、この世にきよらかなものがあると思っていますが、それは迷いであって、真実は不浄である、ということです。
例えば、どんなにきれいな人がいても、一皮むけばウミ血が流れており、それをきれいだと思う人はありません。
どんなハンサムな人もレントゲンをとれば、骨の連鎖です。
唾を吐いて、それを飲んで下さいと言われても、自分のであっても飲めません。
誰もが共通して、そのようなものでできているのが人間なのです。
また、心の中もきれいな心があるように思っていますが、実際には人に言えないような悪いことばかり思っています。
みんなきよらかなものがあると思っているのですが、トイレの中にいると鼻がバカになって臭いと感じなくなるようなもで、実際には不浄なのです。
このお釈迦さまの説かれた不浄観を聞き誤って、修行していたお弟子が、極端に自分の肉体を嫌うようになり、自殺しようと決心しました。
あるお弟子は、自ら刀で自殺し、
あるお弟子は、毒薬を飲んで服毒自殺をし、
あるお弟子は、首に縄をかけて首つり自殺をし、
あるお弟子は、高い崖から飛び降りて飛び降り自殺しました。
その中でもあるお弟子は、ある他のお弟子がもともと猟師だったことを思い出して、殺してくれるようたのみます。
快く引き受けたそのお弟子は、刀で斬り殺してしまいました。
その刀を川で洗っていると、どこからともなく
「お前は実に立派なことをした。
涅槃に入りたくても入れなかったお弟子を涅槃に入れてやったのだ」
と悪魔の声がしました。
それを聞いて自分は善いことをしたと思い込んだそのお弟子は、他のお弟子にも希望者を募ります。
すると、不浄観を勘違いして、肉体を嫌いになっていたお弟子たちが次々と「この命を断ってくれ」と希望します。
こうして60人が刀の露と消えていきました。
やがて次のお釈迦さまのご説法の日になると、いつもより参詣者がだいぶ減っています。
お釈迦さまが、
「どうして今日はこんなに少ないのか」
と聞かれると、阿難は、
「不浄観を聞き誤ったお弟子が、自ら命を断ってしまったのです」
と答えます。
それを聞かれたお釈迦さまは、お弟子を集めてこう尋ねられました。
「お前たちは、みんなが死んで行くのを放っておいたのか」
「はい、おっしゃる通りです。
自ら死にたいという人を引き留めるのもどうかと思いました」
それを聞かれたお釈迦さまは強い口調でこう言われます。
「お前たちのしたことは、出家にあるまじきことであり、仏教にかなわない。
まったく不浄なことである。
明らかに聞くがよい。
本日ただ今をもって戒律を定める。
仏の教えを聞く者は、自殺してはならない。
人に刀を与えて自殺を助長してはならない。
罪深い肉体に何の価値があるかと間違った不浄観によって死を勧めたり、人を死に至らしめた者は教団を追放する」と
(出典:『鼻奈邪経』第一巻)
このように、お釈迦さまは、自殺も、自殺幇助も固く禁じられているのです。
仏教は人間に生まれたときしか聞けませんから、仏教が大事であればあるほど、肉体の健康が大事なのです。
もちろん最初に出てきたように、お弟子以外の、まだ「仏教を聞いていない人私たち凡夫」に対しても、もちろん自殺を止めておられます。
現代の自殺をしようという人は、ほとんどが仏教を聞いて悟りを開いた人ではないでしょうから、
死んだら大変なことになります。
もしあなたがお釈迦さまに自殺の相談をすれば、
お釈迦さまはもちろん自殺を止められるでしょう。
ですから、親鸞聖人も蓮如上人も『信心決定して後生の一大事の解決を急げ』と仰るのです。