自殺対策として政府は、
「誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現」
を目指して、「生きることの包括的な支援」をするといいます。
 これは生きることを応援するということなので、「とにかく頑張って生きよ」ということです。

 人生には、どんな人でも苦しいことは色々やってくるもので、苦しいことが何もなくなることはありません。
 「このまま生きているのは苦しいだけだから、死んだほうがまし」という人に、ただ「応援するから頑張って一生懸命生きよ」というだけでは、「もっと苦しめ」ということになりかねません。

 自殺する人は、苦しいことが1つや2つやってきて、その日に即日自殺するわけではなく、大きな苦しみが幾つもやってきて、ずっと悩んでいます。
 一日じゅう悩み続けて、夜寝ている間も悩み続けて、この先生きていても特に何もよくならないと感じてお先真っ暗になります。
 それで死んだほうがましだと思って自殺してしまうのです。
 つまり、色々な苦しいことがあって、それが将来も続いて行く中で、生きなければならない理由が分からないところに自殺の本当の原因があるのです。
つまり
生きる意味が分からないことに自殺の原因がありますから、自殺対策には、生きる意味が必要なのです。

 

世間では、自殺について
「自殺は悪だ」とか、
「自殺は悪だと思えない」とか、
自殺を善悪で論じます。

 自殺を善悪で論じるのはもともとキリスト教の考え方です。
 キリスト教では、命は神から与えられたものと思っていますから、神から与えられた命を自ら断ち切るのは、神に対する反逆です。
 それで、キリスト教では自殺は悪なのです。

 しかし法律では自殺は悪だとは定められていません。
 それは、山の中で静かに首を吊って死んでも、誰にも迷惑をかけないからです。

 仏教を説かれたお釈迦さまも、自殺を善悪では論じておられません。
 では、お釈迦さまは、自殺についてどのように教えられているでしょうか?

つづく