この究極の疑問に、生物学者の小林武彦・東京大学定量生命研究所教授の新著『生物はなぜ死ぬのか』(講談社現代新書)から読み解いてみたいと思います。
今日から少しの間仏教からは離れます。
地球の誕生から進化を繰り返して獲得してきた世代交代のシステム、そして、遺伝子レベルで組み込まれた「老化というプログラム」に抗う、アンチエイジングの最前線にも触れています。
新型コロナの時代に改めて問い直したい「生きる」という意味、そして「多様性」や「個性」が人類の未来に死活的な意味を持つ理由について、みんなで少し考えてみましょう。
死はヒトだけの感覚
少し残酷な感じがしますが、多くの生き物は、食われるか、食えなくなって餓死します。
これをずっと自然のこととして繰り返しており、なんの問題もありませんでした。
つまりざっくり言うと、個々の生物は死んではいますが、たとえ食べられて死んだ場合でも、自分が食べられることで捕食者の命を長らえさせ、生き物全体としては、地球上で繁栄してきました。
寿命で死ぬ場合も基本的には同じで、子孫を残していれば自分の分身が生きていることになり、やはり「命の総量」はあまり変わっていません。
食うか、食われるか、そして世代交代による生と死の繰り返しは、生物の多様化を促し、生物界のロバストネス(頑強性、安定性)を増しています。
つまり生き物にとっての「死」は、子供を産むことと同じくらい自然な、しかも必然的なものなのです。
事実、自身の命と引き換えに子孫を残す生き物、例えばサケは産卵とともに死に、死骸は他の生き物の餌となり、巡り巡って稚魚の餌となります。
もっと直接的な例ではクモの一種であるムレイワガネグモの母グモは、生きているときに自らの内臓を吐き出し、生まれたばかりの子に与え、それがなくなると自らの体そのものを餌として与えます。
まさに、「死」と引き換えに「生」が存在しているのです。
一方、ヒトの場合は少し複雑です。
死に対する恐れは非常に強く、特に身内の死には大変なショックを受けます。配偶者や近親者の死は、間違いなくヒトが受ける最大級のストレスです。
このように、死に対してショックを受けるのは、言うまでもなく、ヒトが生に対して強い執着を持つ生き物であるためです。
喜んだり悲しんだりもそうですが、相手に同情したり共感する感情は、霊長類や大型哺乳類、鳥の一部にも見られますが、ヒトのそれは他の生き物より抜きん出て強いのです。
この同情・共感する感情は「優しさ」と言ってもいいのかもしれません。
死を怖がる気持ちは、自分が死んだら周りの人が悲しむだろうな、苦労するだろうなという想像からもきています。
この同情心(人に対する優しさ)、徳(全体に対する優しさ)などの人間らしい感情・行動は、やはり変化と選択の進化の過程で獲得したものです。
つまり種の存続のためには、自分だけが生き残ればいいという利己的な能力よりも、集団や全体を考える能力のほうが重要であり、選択されてきたのです。
そこから来る死に対する悲しみや恐れは、もっとも人間らしい感情と言ってもいいかもしれません。
このような感情豊かに発達した脳とは裏腹に、体の構造は他の動物とあまり変わりません。
容赦なく死は訪れます。発達したヒトの脳は、当然それから逃れる方法はないかなどと考えます。
なんとか老化を免れる方法はないだろうか―つまりアンチエイジングという考えが生まれます。
つづく