仏とは「悟りを開いた方」とお伝えしました。
地球上で唯一悟りを開かれた方はお釈迦様唯一人です。
皆さんは仏と聞いてどんな人を思い浮かべるでしょうか。
殺人事件で刑事が
「今回の事件の仏さんです」
とか葬式に集まった方々が
「今日の仏さんは穏やかなお顔しとらっしゃる」
など、死んだ人のことを仏と言っている事がよく聞かれます。
けれど本来の仏の呼称とはまったくかけ離れた意味で使われた誤用なのです。
悟りを開いた方のみを仏と呼ぶのです。
では悟りとはなんでしょう。
参考までに仏教の辞典を見てみましょう。
悟り
さとり[s:bodhi]
迷いの世界を超え、真理を体得すること。
<覚り>とも
<覚><悟><覚悟><証><証得><証悟>などともいい、bodhiを音写した<菩提>も用いる。
また、漢訳仏典においては、bodhiの意訳として<道>をしばしば用いるが、これは仏教における悟りを中国古典における根源的実体である道と同一視するものである。
bodhiは語根√budhに由来し、目覚めることを意味する。
同じ語根に由来する仏陀buddhaは目覚めた人の意である。
悟りは仏教が最終的に目的とするところで、その絶対性を表すために、阿耨多羅三藐三菩提anuttarā samyaksaṃbodhiḥ(無上正等覚。この上ない完全な悟り)という言い方もなされる。
煩悩の炎を吹き消し、輪廻の世界を超脱したというところから、涅槃や解脱とも同義とされる。
(引用:岩波佛教辞典)
この辞典では、悟りの別名がたくさん記されていますが、内容としては、迷いの世界を超え、真理を体得すること。
それは煩悩の炎を吹き消し、輪廻の世界を超脱したことだと書かれているだけです。
しかし悟りといっても複数の段階があり、それを段階的に悟っていくのが、悟りを開く意味でもあります。
そこで、このような辞典では分からないようなことまで、悟りについて分かりやすく解説していきたいと思います。
まず、「さとり」という言葉はよく、苦しいことが起きたとき、「人生さとった」という人があります。
これは諦めたというような意味です。
他にも、何か気づきをえたとか、何かがひらめいたことを、「さとった」という人がありますが、悟りは、諦めとかひらめき、気づきとはまったく違います。
気づきやひらめきは相対的な理解の深まりですが、悟りというのは、絶対の智慧なのです。
理解が深まったり納得するのは、相対的なものなのです。
この「わかったー」というのを悟りのように思う人がありますが、
これは同じことでも、頭の回転の違いで、理解するのに相対的な速い遅いがあります。
こういうのは、理解や納得の問題です。
ところが、悟りというのは、絶対的な智慧で、理解を延長してたどりつくものではありません。
悟りは、1段違えば、人間と虫けらほど境涯が違う
といわれます。
虫けらに、スマホやパソコンのことを教えようとしても、とても分かるものではありません。
気づきやひらめきの内容は、人間でも説明して行けば、充分理解可能ですから悟りではありません。
悟りというのは、そんな程度ではなく、比較になりません。
境涯がまったく変わってしまうのです。
悟りを開くと、どんなことを悟るのかというと、大宇宙の真理です。
大宇宙の真理といっても、数学的真理とか、科学的真理ではありません。
すべての人が本当の幸福になれる真理です。
これを「真如」といいます。
真如は、言葉で表せるものではなく、言葉を離れた絶対の世界なのですが、言葉でなければ伝えられません。
その真如を体得され、仏のさとりを開かれた方を、仏とか、仏様、はたまたブッダと言われるのです。
約2600年前、35歳で仏の悟りを開かれて、真如を体得されたのがお釈迦様なのです。
また、真理ついて古歌にはこのようにいわれます。
「真如とは若き女の乱れ髪
ゆうにゆわれず
とくにとかれず」
これはどういう意味かというと、
「真如とかけて、若き女の乱れ髪と解く、その心は?」
と謎かけをした場合、
結おうとしても結うことができず(言うに言われず)
解こうとしても解くことができない(説くに説かれず)
ということです。
このように、真如は本来、言葉を離れたものなのです。
このような言葉では表現できない悟りの境地を「離言真如」といいます。
ですが、言葉を離れた境地だと言っていても、真如まで導くことはできません。
そこで、真如を言葉を尽くして教えられているのが「依言真如」です。
真如そのものは言葉を離れた境地ですので離言真如ですが、 お経やお聖教(仏教の本)に説かれていることは、依言真如なのです。
悟りの段階・種類と名前については次回の記事でお伝えします。