どれほどの幸運な人生も苦悩の人生であることには変わりはなかったのです。

 

 考えて見ますと、私たちは喜び楽しみ安らぎよりもずっと多くの悩み苦しみ悲しみ痛みを感じるようにできているようです。

 痛くて何日も満足に寝られなかったとか、心配で何週間も仕事が手に付かなかったとか、悲しくてご飯も喉を通らない日が続いたとかいうことはよく耳にします。

 しかし、嬉しくて何日も眠れないほどだったとか、楽しくて何週間も我を忘れただとか、気持ち良くて一日中ぼおっとしていたとかいう話はおとぎ話以外はあまり聞きません。

 美味しいものも毎日食べれば飽きてきて嫌になります。

 では不味いものも毎日食べれば不味くなくなるか。

 なりませんね。苦しみは次から次へとやってきます。そしてなかなか消えません。

 たのしみは次から次へとやってくることはありません。

 来たと思えばすぐ消えてしまいます。
 何故なのでしょうか。

 私はこうではないかと考えています。

 楽しみや喜びはなくても生きていけるが、痛み苦しみがなくては生きていけないからではないかと。

 もっとも、よろこび・楽しみ・安らぎがなければ生きていても味気ないですね。

 よろこび楽しみ・安らぎは人生に、励みとゆとりと味わい、そして華やぎと勇気を与えるものだと思います。

 両方あってこそ自然にいのちと健康が保たれるということになるのでしょう。


 温度が上がり過ぎれば暑い。下がりすぎれば寒い。

 食べないでいれば空腹にさいなまれる。食べすぎれば苦しい。

 動きすぎればしんどい。眠らなければつらい。どこかに病気や怪我でもあれば痛んだり疼いたりする。

 一方、暑いときの氷水はうまい。寒いときの温泉は最高だ。

 腹が減ったときはただのおにぎりもごちそうです。

 肩の凝ったときはマッサージがなにより気持ちのよいものです。
 人間の体の健康を保っていのちを支えるのはなかなか微妙で複雑な調節が必要ですね。

 身体中にさまざまな探知機、信号機をはりめぐらしてあって、それがいのちをまもるバリアーの役目を果しているわけでしょう。

 今回の帯状疱疹にも原因は有るのでしょうか。

 帯状疱疹の原因は水ぼうそうと同じウイルスで、日本人の成人90%以上の体内に潜んでいます。
加齢や疲労、ストレスで免疫機能が下がると、ウイルスが活性化して帯状疱疹を発症することがあります。
50歳代から発症率が高くなり、80歳までに約3人に1人が発症すると言われています。
(帯状疱疹.JPより)

 こうやって痛みを与えて、悪い所を教えてくれる安全装置なのではないかと思うのです。


 癌という病気の怖い点は、最初は痛くないといことにあります。

 痛いとかだるいとか言って、「先生、わたし癌じゃないでしょうか」というのはほとんど癌じゃない証拠だというお医者さんのお話を聞いたことがあります。

 痛くはないが、出血がある。痛くも痒くもないがしこりや腫れ物があるというのが危険だというのです。

 実際に痛くなった頃にはもう手遅れのことが多いというのです。

 ですから、わたしは思うんです。

 いろいろな癌を治すためのさまざまな薬を作るより。これを日頃から飲んでいれば、癌ができたらぎりぎりとはげしく痛むという薬を発明した方が早いのではないかと。

 そうすれば、みんな早期発見、早期治療で大事には至らないのではないか。

 どんな良い治療法が開発されても、油断して手遅れになる人は意外と多いに違いありません。

 治療より痛いこと(お知らせ)の方が先ではないかと思うのです。

 病気があるのに健康だと思い込んでいることほど恐ろしいことはありませんね。
 深い迷いを抱えながら、自分はまともだと思っていることほど恐ろしいことはないということにもなるのでしょう。


 とにかく暑い寒いだるい痛いと感じる神経が通っているということは大事なことです。

 いちいち頭で考えていたのではとても手がまわらないわけです。
 まさしくわたしたちのいのちは苦痛というバリアーで守られ、快適というバロメーターで調節されていたわけです。

 そしてこのことは、どうも体のことだけではないようです。 

 

 こころの面でいえば、将来に対する不安がある。だから、人はそれに備えることを学びます。努力します。

 どんな結果になっても悔いることのないようにと、精一杯今を努めることこそが心を安んじて前にすすむ道ですね。
 やり場のない悲しみに出会う。その自分自身の悲しみを通してはじめて、人の気持ちを思いやることもできるようになるのではないでしょうか。

 そして、人を思いやることをおぼえてはじめて、今までずっと人から思いやられて支えられてきた自分だったことに気がつくのです。感謝とよろこびを知ります。


 苦しみあってこそ、耐え忍ぶこと、助け合うよろこび、のりこえる楽しみを学んでいくのだと思います。
 悩むからこそ何が本当か、何が大事か、どう受け止めていけばよいかを考えます。そこから生きることを楽しむ知恵がわいてきます。
 そして、すべては過ぎ去る。我が身も滅ぶ。

 二度とない今日なのにこれでよいのだろうかと煩悶するとき、人は耳を開いて道を聞こうとします。

 先人の英知をたずねることを学びます。そして生涯かけての願いが生まれることもあるでしょう。

 目標を持って生きるようになることもあるかもしれません。
 このように考えたとき、人間は憂い・悲しみ・苦しみ・悩み・悶えによって育てられていくものなのだなあと思わずにいられません。

 それと同時に苦しみ悩みのないところに喜び・楽しみ・安らぎ・生き甲斐があるのではなくて、苦しみ悩みが発酵して喜びとなり楽しみとなり、安らぎとなるのではないかと思えてくるのです。
 そして逆にいえば、喜びや楽しみも、忍耐や努力、人への思いやりや目標を失うとだんだんと腐敗して、退屈・しらけ・虚しさ・もの足らなさになってしまうのではないかと思うのです。

 なので苦しみや迷い、痛み悲しみは、生きるためには必要不可欠なものなのだから、死ぬまで無くならないのだと思うのです。