前回の記事で、人間の多様性について解説しました。
しかし多様性を言葉に表現すると誤解を招きます。
なぜならば、そこにはその人の観念が入ってしまうからです。
「みんなちがって、みんないい」このことばを耳にした人はないでしょうか。
今回は「みんなちがって、みんないい」というフレーズで有名な金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」をご紹介します。
さっそく、引用してみましょう。
引用元は「金子みすゞ名詩集(彩図社)」
私と小鳥と鈴と
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速く走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
詩というと、一般人には計り知れない深淵な真実が暗示的に表現されている、だから、なかなか理解できない、と思い込んでいる人が多いのではないでしょうか。
いえいえ、詩はわかりやすいほうがよいのです。
もちろん、わかりやすいだけでは不充分であって、わかりやすくて深いのが優れた詩だというべきでしょう。
物事の本質や人生の真実を、ふだんの生活で使う言葉(日常語)で、簡明に伝えてくれるのが、優秀な詩の特長だと思うのです。
専門の言論人や表現者は、難しいことでも、わかりやすく伝える義務があり、それができなければ、努力か能力が不足していると言われても仕方がありません。
それに比べ、金子みすゞの詩には難しい言葉は使われていないけれど、わかりやすく、そしてなおかつ、そこには、この世界の真実、人間にとって実に切実なテーマが表出されており、感動をしてしまいます。
ここでは、金子みすゞの魅力を一点に絞ってお伝えすることにします。
心は眼に見えません。他人の心も、自分の心も見えないから、不安になります。
この眼には見えない心を、誇張も、歪みも、虚飾もなしに、心のあるがままの姿を、形にすることは容易ではありませんが、それを詩という形で示してくれたのが、金子みすゞなのです。
だから、金子みすゞの詩を読むと、救われた気持ちになるのでしょう。
詩を書いたことがある人ならばわかると思います。
ともすれば、格好よく見せようとしたり、背伸びをしたり、「あるがままの心の姿」とはかけ離れたものになりがちです。
金子みすゞが、言葉を飾らないのには理由があって、装飾を加えた途端に、真実がするりと抜け落ちてしまうので、限界まで表現を単純にしているのだと思います。
それは「裸の心」というべきか、あるいは「仏教における無」というべきか。はたまた「あるがままの心」というべきか……。
装飾のほかに、金子みすゞが避けたものがあります。
それは「概念的な説明」です。
不思議なことに、真実は説明しようとすると、知らぬ間に見えなくなってしまう。
だから、金子みすゞは、比喩や擬人化によって、眼には見えない心の姿に形を与えようとしたのでしょう。
私たちは日常生活や仕事において、説明して相手をわからせようとしがちです。
でも、説明してもわからないことの方が大事な場合が多いのです。
そういう時は、金子みすゞの詩を想い出し、「概念的な説明」ではない方法で、伝えたいことを伝えるように、工夫すれば、対話のステージは上がると思われます。
話が難しくなりましたが、ようは
意見が異なるのは、それ自体は悪いことではありません。
異なることで、相手を過度に憎んだり、誹謗中傷を浴びせたりするのが悪いのです。
意見が対立していても、対話を粘り強くすることで、AとBのステージにとどまっていた意見が、Cというより高く、豊かなステージに到達できるかもしれないのです。
最初からみんな同じ意見ならば、より高く豊かなステージを目指すことさえしなくなるでしょう。
私はこれまで何回ともなく、分断・差別を解消するための対話の必要性を説いてきました。しかし、なかなか実現しません。
お互いの違いを認め合い、違いを生かして、より豊かな世界を実現しましょう……
となるためには、技術論や方法論ではなく、人間への大きな愛が必要だと最近、つくづく感じるようになりました。
皆さんも一度金子みすゞの世界を感じていただければと紹介させていただきました。