大谷翔平選手の記者会見を見て、嘘をつくことのバカらしさを改めて思い知った会見でした。 

 

正直なことは良いことですよね。

 嘘をつかないで正直に生きることができる人のことを心から尊敬します。

 でもいくら正直に生きたいと思っていても、小さな嘘の一つもつかずに生きていくのは私には無理だと思うのです。

 一つの嘘をつけば、その嘘を隠すためにまた嘘をつく。

 嘘の上塗りのために、どんどん嘘のスケールが大きくなってしまうこともあるのです。

 最初は罪の意識もなくついてしまった小さな嘘でも、最後には人を傷つけてしまうような大きな嘘になってしまうこともありますよね。

 しかし嘘は良くないので、正直者でありたいですね。

 昔の人は正直に関して、どう考えていたのでしょうか。

ことわざから紐解いてみましょう。

正直は一生の宝

 正直は一生の宝とは、正直者であることはとても尊いことで、自分の宝として大切にすることであるという意味です。

 正直者は周り人たちからも信頼されます。

 商売をしても正直な人と取引したいと思うものですから、正直でいることで自分にも幸せが集まってくることの例えでもあります。

 

正直の頭に神宿る

 

 正直の頭に神宿るとは、嘘で人を欺いたりしなければ、きっと神様のご加護があるでしょう・・。という意味です。

 どんなに人に知られないように嘘をついていても、神様には見抜かれているという意味でもあります。

正直は最善の策

 正直は最善の策とは、色んな作戦を練るのなら正直に真正面から向かった方が良いという意味です。

 もう少し掘り下げると、何か失敗した時とか悪い報告をしなければいけない時などに、悪いイメージを隠そうとして色々と策を練っても、それがバレたらより信頼を失います。

 色々と策を練るのなら、言い訳したり隠そうとせずに正直になった方が良いというわけです。

 たしかにミスった人が正直に話してくれて真っ直ぐな気持ちで謝罪されるとそれ以上は怒れなくなってしまうこともあるのではないでしょうか、正直が最善の策というのはよくわかります。

 水原通訳もこのことわざを知っていたら、こんなことにならなかったかもしれませんね。

 

これに対して

正直貧乏 横着栄耀 

 正直貧乏、横着栄耀とは、正直者が馬鹿を見るということわざと同じ意味で、正直ものは損することが多くて貧乏生活になっても嘘つきになれない。

 ズル賢い人間は人を欺いたりしながら得することばかり考えているので栄えて裕福になるという皮肉めいたことわざです。

 

 現実問題として、正直者が馬鹿を見ることもよく目にすることです。

 皆さんは、損をしても正直者でありたいですか?

 それとも嘘も方便として、適当に嘘をつくことも許されると考えますか?

 私は阿弥陀仏に救われるまでは、嘘も方便も仕方が無いと思っていました。

 しかし、仏の眼(法鏡)から見られていると分かった時点で、それが大いなる誤りであることがハッキリしました。

歎異抄の謎を解く4(最後の鏡) | かとチャンと仏教ブログ (ameblo.jp)

歎異抄の謎を解く5(あなたは悪人?それとも善人?) | かとチャンと仏教ブログ (ameblo.jp)

 

 それがどんなに善良な心から出た嘘でも、仏教では嘘を「妄語もうご」といわれ五戒のひとつで、口で造る罪悪です。(厳しく戒められています)

 弥陀の浄土に生まれようとする者が、どんな理由があれ、自分自身を穢す罪を造っては、阿弥陀様に申し訳が無いではありませんか。

 後生の一大事を解決しようとする身であるならば、正直に生きなければならないのです。