『あきらめる』という言葉があります。
司法試験を目指していた学生が、6度目の不合格通知を前に、もうすぐ30歳、親にこれ以上心配かけられない、との思いから「もうあきらめようかな」とつぶやく。
彼女ができず、結婚相談所に登録し、何人もの人と会うも、進展しない、
「これはもう結婚するのあきらめろ、ってことかな」と自嘲する。
そんなときに使う「あきらめる」という言葉は、ユメを捨てる、目標達成を断念する、という意味で使われ、ネガティブな意味合いを持ちます。
逆にあきらめない姿勢こそポジティブであり、あきらめない人が強い人であり、道を切り開ける人だと賞賛されます。
スラムダンクの安西先生の名言の、
「あきらめたらそこで試合終了ですよ」
のように、あるいは成功者を追う番組でも
「あきらめない」姿勢が視聴者の感動を誘います。
さてこの「あきらめる」という言葉、実は仏教由来の言葉なんです。
それどころか仏教の根幹をなすとても大事な教えが「あきらめる」ということなのです。
仏教はあきらめる教えである、と言ってもいいかもしれません。
「あきらめる」という言葉が今日の意味ではネガティブな響きがあるので、仏教は残念な教えなのかと受け止められる人もありますが、本来「あきらめる」とは、大変ポジティブで力強く人生を切り開く思考なのです。
では仏教本来の意味での「あきらめる」とは、どんな意味なのでしょうか。
「あきらめる」とは漢字で「諦観ていかん」と書き、諦はインドの原語「サンスクリット」で、真理、明理を意味します。
観はミルということですから、諦観とは「アキラカニ真理ヲミル」
ということなのです。
この「アキラカニミル」の仏語が次第に変化して
「アキラニミル」・・「アキラミル」・・
「アキラメル」になりました。
ところが言葉がこのように変わっただけならよかったのですが、
その表す意味までが変わってしまったのです。
本来仏教での「あきらめる」とは
【なぜそんな結果になってしまったのか、その原因を明らかに見なさい】
ということです。
先ほどの例でいうなら、司法試験に合格できないという結果には、必ずそうなるにいたった原因がある、ということです。
その原因は何か、ここを徹底的に見つめることを「諦観」というのです。
あきらかに見た結果、勉強の仕方に問題があったとわかればそこを変えれば、次回の結果は大きく変わったものとなるでしょう。
これが本来の意味での「あきらめた」人の態度なのです。
悪い結果が起きている時に「なぜそうなってしまったのか」その原因を反省するのは痛みの伴うことですが、そこから目をそむけずに、八つ当たりせずに、あきらかにみていこう、というのが「あきらめる」という本来の意味ですから、
大変ポジティブな言葉であり、人生を切り開く大事なポイントを示す言葉なのです。
私たちも間違いを起こした時、不幸な現実に不平不満を言うのでなく、反省し間違いの原因を「アキラカニミル」習慣をつけましょう。