運命は決まってるの? 1

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生まれ変わりについて考えてきましたが、仏教では、私たちの運命は、自分の行いによって、因果の道理にしたがって造られると教えられています。

 

運命は決まってるの?

「運命」というと「運命の人」「運命の出会い」
といわれるように、あらかじめ自分にやってくると決まっている
でき事のように思います。

果たして、自分に起きる運命は、あらかじめ決まっているのでしょうか?
決まっていないとすれば、どうすれば運命を変えられるのでしょうか?

運命とは

 私たちの人生には、色々な出会いや別れがあります。
また、色々な不幸や災難が起きます。
 そんな色々なできごとが起きたとき、「これは運命なのだろうか」と思います。
 また、不穏な兆しがあると、「これからどんな運命が待ち受けているのだろう?」と思います。

「運命」というと、
自分の人生にやってくるできごとをいいます。

例えば、
自分は将来どんな仕事をするのか。
どんな人と出会うのか?
誰と結婚するの?
仕事はうまくいくのか?
将来、事故や火事、何らかの事件に巻き込まれるのか?
病気になるとすれば、いつどんな病気なのか?
何歳まで生きるのか?

 誰しも一番関心があるのが、自分の運命です。

 この「運命」がどのように決まるのかについて、昔から3つの説があります。
1.偶然論
2.
の与えたもの
3.決定論(宿命論)

の3つです。

1.運命は偶然決まる?

 最初の「偶然論」とは、運命には何の原因ないというものです。

何かのアクシデントが起きると、
が悪かった」といいます。

例えば、スピード違反で捕まったとき、
「もっとスピードを出しても捕まっていない人がたくさんいるのに、
 なんで自分だけこんな目に合わなければならないんだ。
 自分がスピード違反で捕まったのには原因がない。
運が悪かった」
と思います。

 ところが、自分が不幸に見舞われたのは偶然で原因はない
 と考えると、自分の運命を自分でコントロールできません。
自分の人生はまったく予測できない
ランダムの産物になります。

そのように考えると、苦しみがもっと大きくなると、
ショーペンハウアーは言っています。

われわれに苦しみをもたらした当の事情が
偶然にすぎなかったとわれわれが考えること自体が、
苦しみにむしろとげを与えるものなのである。

(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』)

原因がないと言うのは、
 その人に原因が見つからないというだけであって、原因が存在しないのではありません。

スピード違反で捕まる原因は、
スピード違反をしたからです。
スピード違反をしなければ捕まりません。

この世のことはどんなことも原因があります。

仏教では「すべての結果には必ず原因がある」
という
因果の道理を根幹として説かれていますので、
このような「運命の原因がない」という考え方は、
「無因無縁論」として、
間違いであると教えられています。

 人間の知恵には限界があり、科学や医学でわかるのは、今のところ単純なことだけですので、
まだまだ人間にわからないことはたくさんあります。
しかし、原因はあると思うからこそ、
 その原因を解明しようと、日夜研究が続けられているのです。
 原因はないのではなく、必ずあるのですが、わからないだけです。

次に、原因があるのに分からないとなると、
 人間は、「運命はによって与えられたものだとか、
自分たちを超える大いなる存在に決められたのだ」
と考えたくなります。
 これが、2番目の運命論「の与えたもの」という考え方です。

2.運命は神が与えたもの?

 このように考えている人は、
何か苦しいことがあると、
が与えた試練だ」
と考えます。

 全知全能のが存在して、
そのが、自分を向上させるために、
試練を与えていると考えるのです。

 また、星占いなども、いつどこで生まれたのかによって
すでに人生に起きるできごとは、
大いなる宇宙の意志によって決まっていると考えているので、
「星の巡り合わせが悪かった」とか
「不幸な星のもとに生まれた」などといって
それを星の位置から知ろうとします。

 キリスト教では、もともと星の位置で運命が決まっている
という運命論を批判して、自由意志が強調されましたが、
 やはり全知全能のが運命を与えていることになるので、
自由意志と矛盾してしまい、
 現在でもキリスト教の人たちの間で意見が分かれています。

 イスラムでは、運命は人間の力ではどうすることもできず、
全知全能のが与えたものと考えています。

この考え方の場合、
乗り越えられそうもない
大きな不幸がやってきたときに
説明がつかなくなります。

キリスト教の世界では、
1755年、カトリックの祭日である11月1日に
マグニチュード9のリスボン地震が起き、
2万人が即死し、15mの津波で1万人が死んだといわれます。
 ポルトガルのリスボンの町の85%が廃墟と化し、
約6万人が亡くなったといわれます。

敬虔なカトリック教徒ばかりのポルトガルに対して、
あまりの甚大な被害に、当時、
なぜがこのような試練を与えるのか
誰も説明がつきませんでした。

また、自分自身にとっても、不治の病にかかったり、
対処不可能な不幸がやってきたとき、
を恨まずにおれなくなります。

 ブッダの当時でも、バラモン教では、
世界を創造し支配する最高神が存在し、
これを「自在天」といいます。シヴァ神の別名です。

 このような「すべてはさまが決めてしまった」
という考え方を「自在神化作説」といい
 そのような人たちを自在天外道といって、
仏教では間違いだと排斥されています。

 なぜなら、人が殺生泥棒不倫などを行うのも神が決めたことだとすれば、神は悪の存在になってしまいますし、人はこうすべきだという教えもなくなってしまうからだと『中阿含経』に説かれています。

 ところが、間違った運命論には、
現代に通ずるものがもう1つあります。
それが、「決定論」です。

3.運命は過去から決まってる?

 このようなの存在なしで、
運命はすでに決まっているという考え方を
「決定論」とか「宿命論」といいます。

 これは、ニュートン力学ができた頃は、
宇宙がある法則によって機械のように動いているだけだとすれば、
未来の運命も決まっているという説がありました。

 ところが現代物理学の「不確定性原理」によって、
位置と運動量は同時に決まらないことが分かり、
未来の運命は原理的に知ることはできないと
分かりました。

 仏教では、このように運命が過去から決まっていて
 変えることができないという考え方を宿作因説といい、
間違いだと排斥されています。

 しかもこの考え方の人は、悪いことをしても、
「私が殺生をするのは、過去から決まっていた運命です」とか
「私が泥棒をするのは、過去から決まっていた運命です」とか
「私が不倫をするのは、過去から決まっていた運命です」
などと言って、手がつけられません。
 このような決定論や宿命論を信じていると、人はこう生きるべきだという教えがなくなり、幸せになることはできないとブッダが祇園精舎におられた時に説かれています。

では仏教では運命をどのように説かれいてるのでしょうか?

2につづく