◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 667」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 667」

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しかしながら、戦後の“軍事抜き”の風潮の中で、殆どの外交官たちは懸命に外交努力をしているのだが、中には、驚く程の失態を演じた現地外交官の判断ミスの例もある

 

 

「日本の顔を蹴られ、誇りを踏みにじられた事件が中国で起こり、そのビデオ映像が世界中に流れた」例が、インターネット上で紹介されているが、それは「2002年5月8日午後2時ごろ、北朝鮮の男2人と女3人(1人は2歳の幼女)が、中国にある日本・瀋陽総領事館へ脱兎のごとく駆け込んだ」事件のことである。

 

 

「拉致事件を抱えるわが国としては貴重な外交上の取引材料であったはずだが、現地大使が「自分が責任をとるから追い返せ」と領事に指示したと言うので、国民の怒りを買い、外務省に対する不信感が一気に広がった。

この実例はテレビで大きく報道されたが、瀋陽の総領事は上司である大使からの指示を実行したに過ぎなかったにもかかわらず、世論は紛糾した

私は當時大使館でこの渦中にあった一人から直接聞いたのだが、大使は館員に対して「自分が責任をとるから、追い返せ!」と言明していたと言う。

しかし、問題が大きくなると責任をとると言明したにもかかわらず、逃げの一手だったようだ。

 

 

とりわけ彼が失望したのは「大使の責任を追及する」様な情報がTVに出るたびに、取巻きの館員に“犯人探し”を大使が命じていたことであった

 

 

どこまで自己保身に走るのか!」と若い彼は“大使と言う国を代表する人物”に幻滅して退職したと言うのである。

今世間で大きな話題になっている“高級公務員”や“私学の理事長や学長”らの目を疑うような判断力の欠如は、外交を預かる人間にも当てはまると言えるのかもしれない。

明治時代の外交官であった陸奥は、巻末を次の言葉で締めくくっている。

【口語訳=今回、三国干渉が来たときは、まさに、日清講和条約批准の期日が迫るときであり、政府は、三国と清国の両方の問題を一挙に解決するため、あらゆる努力を尽くした結果、ついに、乱麻を断って、清一から戦勝の結果を得るとともに、露独仏三国の干渉を無事切り抜けたものである

 つまり、日本は、行けるところまで行き、止まるべきところに止まったのであって、自分としては、誰がこの場に当たっても、これ以上の策はなかったと思う】

岡崎氏も「その通りであろう」と言い、

日清戦争を通じての日本の外交は、一歩踏み外せばどこまで堕ちていくか分からない深淵が両側に覗いている細い道を手探りしながらやっと渡りきったようなものである。

 

 

しかも当時の日本は、日露戦争時の日英同盟のような困った時の後ろ盾があるわけでなく、まったく独立独歩、自己の判断ですべての局面に対処しなければならなかった。

 結果として日本は生き延びた。そして、その後、半世紀にわたって隆盛を誇る大日本帝国の第一歩を踏み出すことになる

 

 

その後、敗戦はあったが、現在われわれが享受している高い生活水準の基礎になる近代技術、近代教育等の少なからざるものは、この大日本帝国の隆盛期である半世紀の遺産である≫

 このような明治の外交官たちの“愛国心の源泉”は、何処から生まれたのであろうか?そして戦後日本はどうして貴重な“遺産”を活用できないのであろうか

 いやその前に、大東亜戦争直前の我が外交官たち(例えばワシントン大使館の失態)に見られたように、明治時代のような緊張感が欠落してしまったのか?

 

 

そして少なくとも“去勢された”戦後の時代から脱却できないものか?

≪日清戦争における日本の成功の裹には、幸運もあり、相手側の失敗も数々あった。

 

 

しかし、客観的に振り返ってみて、伊藤、陸奥の戦争指導にどこかでも隙があったとすれば、あれほどの成果は決して得られなかったであろう。

 

 

むしろ、伊藤、陸奥の存在なしでは、大失敗の落とし穴が至る所に口を開けていた戦慄すべき状況だったといえる。

『蹇蹇録』完成後一年余にして、陸奥は逝去する

 

 

憂国慨世の気力が最期の際まで衰えなかったものの、積年の国事尽瘁と宿痾のために生命を保てる状況ではなくなっていた。

 

 

しかし、大日本帝国を起こしたその鴻業と稀世の名備忘録『蹇蹇録』は、永久に陸奥の名を青史に留めることであろう≫

陸奥の時代までさかのぼるのは無理だとしても、興隆期の明治を生き延びて、世界の一流国の仲間入りした後の我が外交は、なぜ“弛んだ”のであろうか?

 私のつたない体験だが、出向させられた昭和49年夏当時の外務省の局長、参事官以上のメンバーの中には、軍隊から復員された方が目立っていた。

勿論、学徒動員で兵営に入り、幹部候補生と言うだけで訓育係の下士官から、ひどい仕打ちを受けた方も中にはいたから、軍隊嫌いの言動を弄される方もいた。

更に組織としては調査部には、れっきとした旧陸海軍の佐官方が勤めていた

 

 

これ等の方々は、主にソ連の動向について、継続的に情報収集に努めていて、非常に正確な分析をしておられた。

 

 

私は米ソ間のSALTを担当していたこともあり、よく部屋を訪ねてはご指導を仰いでいたものだが、当時のメディアが伝える内容とは一線を画していて、非常に参考になったものであった。

同時に当時の外務省幹部の中には、軍事に対する関心が非常に強く、幹部学校を出たばかりの3等空佐であったが、よく質問を受けたものである。

しかし、いつまでもそのような人物構成が続くものではない。

 

 

徐々に旧軍体験者はリタイアしていき、戦後の新しい教育を受けたエリートたちに取って代わられた。

そして今や我が外交力に対する国民の不満と批判が渦巻くようになってきた。

恐らく明治の外交が顧みられなくなったのは、時代の変遷に伴って、国民から建国の理想が次第に希薄になっていったからではなかろうか?(元空将)

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