◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 660」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 660」
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≪(承前)下関条約調印後、陸奥は療養していた。すると直ちに、三国干渉は動き出す。

 

 

【口語訳=私は、病気療養のため、しばらく休暇をもらい、兵庫県舞子で休息をとっていた。

 

 

各大臣が、それぞれに過ごしていた四月二十三日に、東京に駐在している口シア・ドイツ・フランス公使が外務省に来て林外務次官に面会し、各国本国の訓令だとして、日清講和条約の中の遼東半島割譲の一項に異議を提起してきた】。

 

 

 二十五で触れたように、伊藤と陸奥の間には、講和交渉の進め方に違いがあった。

 

 

すなわち、陸奥は事前に条件を開示して列国に根回しして置く案を示唆し、伊藤は秘密を保持して事前に干渉されるのを排除することを主張した。結局は、伊藤の意見に集約して後者に統一した経緯があった。

 

 

 陸奥は、こうした欧州列強の干渉を受けると、直ちに、伊藤に対して、「我が政府がもし当初に欧洲大国に対し我が要求条件を示したらんには、その時起るべき問題が今日に至りて来りたるものと見るの外なし。

 

 

しかれども我が政府は最早騎虎の勢いなれば如何なる危険を冒すも、即今の位置を維持し一歩も譲らざるの決心を示すの外他策なかるべし。

 

 

貴大臣の御考え如何」(講和の条件について根回しをしていれば、その段階で来た干渉が、今来たということである。

 

 

日本は今や引き返せないところにきているので、危険を冒しても一歩も引かない姿勢を示す以外に方法はないと思うが、貴総理のご意見はどうか)と尋ねている。

 

 

 しかし、同日、林次官の電信を受け取った陸奥は、その形勢がいよいよ容易ならざる状態であることを知る。

 

 

とくにロシアは、前年来、その軍艦を東洋に集結させ、今や強大な海軍力を日本や支那の沿海に配置していた。

 

 

【口語訳=とくにロシア政府は、すでにこの方面の港に停泊するロシア艦隊に対して、二十四時間いつでも出帆できるように準備せよと命令を下したという情報は、事実のようであった】。

 

 

 この分析は、「日本がこれを拒否すれば、日本への砲撃はやむを得ない」というウィッテの回想録の記述と符合している。

 

 

 まさに日本にとって、危急存亡の秋であった≫

 

 

 終戦交渉を前にして、当該国の清一国ではなく、列強の思惑が絡み合い、とりわけロシアの狡猾な干渉が表に出てくる。

 

 

しかもそれはあからさまに「軍事的威圧」を伴っていた。

 

 

しかしながら、当時の我が政府首脳たちは、ひるむことなくこの困難に立ち向かう。そこに際立ったのは伊藤総理の決断だろう。

 

 

この様な決断が、大東亜戦争時代になぜ発揮できなかったのか?と何とも悔しい限りだが、政治と軍事の密接さが消滅しかかっていたのか、政府を構成する人数が多くなっていたからか、更に担当者らに「大みごころ」が理解できず、危急存亡の淵に立つ国家の状態が理解できていなかったからなのか?

 

 

次いで岡崎氏は「三十 干渉受諾以外に選択肢なし――危機に際立つ伊藤の発想」の項の分析に進む。

 

 

タイトル通り、ここでは危機に臨んだ伊藤総理の並はずれた発想と、陸奥の見事な連携が描かれている。

 

 

≪ロシアなどの干渉を受けた直後の『塞蹇録』には、こう記されている。

 

 

【口語訳=この際、わが政府がどう対処するかは、まさに国家の浮沈をかけた重大なことである。

 

 

血気にはやって軽挙妄動を戒めるのは勿論のことだが、しかし、昨年来、わが陸海軍が血を流し、骨を戦場に哂して、連戦連勝の軍功を積み、政府もまた大変な経営の苦心を積んだ結果は、国民の希望に沿うものであり、国内外の賞賛を集めてきたものである。

 

 

また、天皇陛下の批准も既にいただいた条約の主要な部分を無にするような譲歩をすることは、いずれ国家の長久の計として我慢せざるを得ないこともあるだろうが、ここですぐに降りては、国内の反発をどうやって抑えるのだろうか。内外両方の困難に直面して、その態度決定に悩んだ】≫

 

 

 これを素直に読めば、陸奥の心情が痛いほど伝わってくる。

 

 

特に「わが陸海軍が血を流し、骨を戦場に哂して、連戦連勝の軍功を積み、政府もまた大変な経営の苦心を積んだ結果」と言う一説には感慨を覚えない訳にはいかぬ。

 

 

しかもその底には、常に「大みごころ」を意識している。私にはこれこそ「股肱の臣」の姿だと思われるのだが、岡崎氏はその文章には「冴えを欠いている」とする。

 

 

≪ここでは、陸奥の分析や文章が、珍しく冴えを欠いている。

 

 

 事態の進展が、あまりに読み筋通りになったために、前の発想に捉われ過ぎているのか、あるいは開戦以来の国家経営が、余りに苦心惨憺の連続だったのか、理屈に凝り固まっているきらいがある。

 

 

 これに対して、伊藤の現実主義と発想の闊達さは、いつもと変わらなかった。

 

 

 陸奥は、露・独・仏の遼東半島に関する勧告を、「一応これを拒絶し、彼らが将来如何なる運動をなすべきやを視察し、深く彼らの底意を捜究したる上、なお外交上一転の策を講ずべし」

 

 

(一応、これを拒絶して、彼らが将来どのような動きをするかを見て、彼らの意図するところを探ったうえで、外交上、策を講ずるべし)と、既成事実に未練を残している≫
と分析するのである。

 

 

 確かに事は急を要していた。列強三国、とりわけ理不尽な大国・ロシアの軍事的威嚇はせまっていた。

 

 

そんなさなかに「一応これを拒絶し、彼らが将来如何なる運動をなすべきやを視察し、深く彼らの底意を捜究」する余裕はなかったと言える。

 

 

 これに対して伊藤総理は「無謀だ」と判断し、陸奥の意見を退ける。

 

 

 ここが当時の政治家らの偉大さと言うものであろう。

 

 

伊藤は、ロシアと言う“大国”の野望を悉く見抜いていたのである。(元空将)