【知道中国 1707回】 ――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(14)    | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1707回】      
――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(14)
  内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)


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 結局のところ「袁の腰がさだまらないために」、諸外国の銀行団も借款の出しようがない。

 

 

 いわば「支那の統一」は袁世凱の覚悟次第ということになりそうだが、「つまるところ金を以て統一するか、金無しに人物の出るのを待ちて統一するか、

 

 

列国はその統一に達する道行きを見物するのにどこまで辛抱が出来るのであろうか、これが今日支那の将来について注意すべき事柄である」とする。

 ところで内藤は統一問題を超えて中国の将来の可能性について、次のように説く。

 「一体、支那みたような国は、自ら自分の位地を真正に知悉したならば、政治も経済も世界各国に開放する方が、却って自分の独立を確保する所以であるので、些々たる体面論などを喧しく言うのは、全く日本などのやりかたにかぶれた最も愚な政策である」

 「日本などのやりかたにかぶれた最も愚な政策である」との指摘についてはともかくも、「自ら自分の位地を真正に知悉し」て「政治も経済も世界各国に開放する」ことによってこそ「自分の独立を確保する」ことができるとの指摘は、やはり傾聴に値するだろう。

 いまから30年前の1978年末、鄧小平は、建国から30年余りに亘って対外閉鎖を続けていた毛沢東路線を捨て「世界各国に開放する」方向に大きく舵を切った。

 

 

だが、経済のみでしかなく、政治は共産党独裁のままだった。

 

 

それはそうだろう。?小平の開放は共産党独裁堅持が大前提にあったからだ。

 

 

いわば政治不自由・経済自由――いわば共産党を批判しない限り、経済活動の自由を許す――というものだからである。

 強力な中央集権独裁政権によって社会を安定させ外資の呼び込みを狙う。

 

 

社会の長期的安定が確保されているからこそ、日本やら欧米などの外国企業は安価な労働力を求めて資本と先進技術を持ち込む。

 

 

かくして中国は世界の工場に大変身し、やがて世界の大消費市場に転換し、経済大国へと大変身した

 

 

これを経済発展の中国モデルとするなら、現在の東南アジアを振り返った時、中国モデルの「優等生」がカンボジアになろうか。

 フン・セン首相は総選挙という「民主的手段」によって30年余りに亘ってカンボジアに君臨している。司法は政権の走狗となり果てたようだ。

 

 

野党の解散処分は飽くまでも「合法的」に行われ、批判がましい政治家は次々に事実上の国外追放の憂き目に遭わせる。

 

 

かくて社会が「安定」すればこそ、中国を筆頭とする外資が次々に導入され、経済成長が続く。

  カンボジアの隣国であるタイにしても、2005年から10年余に亘って続いた国王支持を掲げる反タクシン派対タクシン支持派――これを言い換えるなら既得権擁護派対新興勢力、国王のシンボルカラーである黄シャツ派対タクシン支持派の赤シャツ――の対立でエンドレス状況の国内混乱を2014年に国軍がクーデターに決起することで鎮静化させ、

 

 

黄シャツ派の指導者を刑務所に送り込み、赤シャツ派のシンボルであるタクシン実妹のインラック元首相を国外に送り出し、プラユット暫定政権は「右と左を切り捨て」たうえで国内不満を押さえ込んでいる。

 

 

総選挙の実施時期は次々に先送りされ、2018年6月予定が11月に。先月の国会では2019年初めの実施となった。

  プラユット暫定政権の一連の振る舞いは、どう考えても民主的とは言い難い。

 

 

だが、クーデター前の10年に較べ抜群の安定状況にあることは確かだ。

 

 

それが2月19日に発表された2017年暦年の実質GDPは4%超。

 

 

タイのGDPが2年連続で4%超は10年振り――という結果に現れているといえる。

 最近10年程のASEAN諸国の経済成長率をみても、最高値を示すヴェトナムを筆頭に各国が軒並みに好調を維持しているようだ。

 

 

独裁権力による政権の長期安定化が経済成長を呼ぶという中国モデルがASEAN諸国に感染することを防ぐ手立てはないものか。


【知道中国 1708回】 (内藤15)
 
「支那の時局について」の発表から1年弱が過ぎた大正2(1913)年7月1日の『太陽』に、内藤の「支那現勢論」が収められている。
 
建国からこの時点まで、中華民国の政治は袁世凱専制に向って進んだ。

 

 

12年末の選挙で革命組織の同盟会を改組した国民党が圧勝し、袁世凱の政権基盤が動揺を来し、年が明けた13年3月には国民党の実質的指導者であった宋教仁が暗殺される。

 

 

孫文を中心とする元同盟会メンバーなどが袁政権打倒を掲げ、13年7月に「第二革命」と呼ぶ武装蜂起を敢行した。

 

 

ちょうど混乱のさなかに、内藤は「支那現勢論」を世に問うたわけだ。

 

 

ちなみに、宋教仁の盟友で知られる北一輝は、宋暗殺の黒幕は袁世凱ではなく孫文だと主張している。

 

 

この問題については、北の『支那革命外史』を読む際に改めて考えることにしたい。
 
いわば大混乱の最中に綴られた「支那現勢論」で、「袁に対する国民党の反対が激しく成って来て、否応無しに、威力を以て圧迫せねば、袁自身の地位さえ危険に瀕するところから」、

 

 

「いずれの邦にも革命後には必然起るところの暗殺時代を生」ぜしめ宋教仁暗殺を決断した。

 

 

それも「袁のごとき真の度胸なき政治家の取る方法としては、余儀無きことであ」る。

 

 

「支那がとうてい統一せらるべきものとして考うる以上は、袁の態度は必然来たるべきものと見るより外に致し方は無いのである」が、「反対党というのも、意気地がないが、袁の政策も依然として無方針である」から混乱は続くと見る。

 

 

そこで幕末の混乱を収拾し明治政府発足へと向かった我が国の動きと比較して、「気が早いだけに、日本は早く纏まったが、支那はも少し纏まりが遅いものと見ねばならぬ」として、日本的尺度で相手を捉えるべきではないことを説く。

 

 

この点は、21世紀が18年過ぎた現在にも通じる警句だろう。
 
とどのつまり「統一も出来ず破裂もせぬ結果として、暗殺時代がさらに継続することは、毫も疑われない」。

 

 

「支那人のごとく、元来、臆病な人間には、暗殺の利き目が一段と烈しいから、今後も随分と爆裂弾で以て、大勢を変化せしむるかも知らぬ」と予測した後、「不愉快に、不活発に、統一事業が進歩して行くというのが支那の将来である」と予測する。
 
また明治維新を例に、革命成功の暁には必然的に「外国の勢力に対する屈従時代」がやって来ると説き、中華民国においては「第一に借款条約で屈従し第二には蒙古問題で屈従しかけており、

 

 

いずれ、次には、西蔵問題で屈従するであろう」と、まさに「屈従時代に這入りつつある」としたうえで、日本政府は袁世凱派と孫文を軸とする反袁派の政争に深入りすることなく、「最も平穏に日本の東洋平和の政策を決定し、尤も安全にこれを実行するということは、甚だ必要であろう」。

だからこそ、「屈従時代を利用する」というようなリアルな考えを持つ必要があろうと説く。

 

 

だが「今の日本政府には、こういう考えのありそうにも思われない」。

 

 

「日本では、朝野ともに支那の政争を野次馬的に眺めて、わいわいと騒ぎまわるものの、自分の国でも、そのために政府と民間と互いに理窟を言い合うて、自分の国で大いになすべきことのあることを遺却しておるかと思う」とし、

 

 

「これくらい外事について気楽でなければ、近頃の大問題である財政行政の整理は出来ないのであろう」と皮肉る。

 

 

中国問題のみならず「外事」は万事他人事なのだ。そう、昔も今も。
 
中華民国の混乱に関する見解は一先ず措き、「日本では・・・自分の国で大いになすべきことのあることを遺却しておるかと思う」とは、我が国で現在まで繰り返されてきた非生産的な中国論議の非生産性の原因を指摘した警句だと思う。

 

 

たとえば最近の習近平による一強体制構築の動きに関しても、「自分の国で大いになすべきことのあることを遺却しておる」ゆえに、国会はモリカケ問題で空転を続け、働き方改革も頓挫寸前。

 

 

メディアではハデに報道が飛び交う。

 

 

情報は大量に生産され、大量に消費され・・・て、オシマイ。         
《QED》
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