■■ 国際派日本人養成講座 ■■人物探訪:渡部昇一 ~ 国民のコモン・センスを守り育ててきた一生 | 護国夢想日記

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        人物探訪:渡部昇一
            ~ 国民のコモン・センスを守り育ててきた一生

「素人の知」で専門家の暴走を批判し、国民の「共有された思慮分別」を守り育ててきた一生。

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■1.“素人の人”

 渡部昇一氏が亡くなって、もうすぐ1年経つ。

 

渡部氏の編集者として20余年にわたって20点以上の著書の編集を行ってきた松崎之貞(ゆきさだ)氏は、「連峰」のような「知の巨人」だった、と評する。

 渡部氏は英文法専攻として出発したが、「和歌の前の平等」という国文学での卓見を発表し[a]、文部省が教科書検定で「侵略」を「進出」に書き換えさせたという新聞報道を誤報であると指摘して沈静化させ、さらには「南京事件」や「従軍慰安婦」での歴史戦争の最前線で戦ってきた[b]。

 これら以外にも人間学、知的生活などの分野でも多くの著書を残しており、まさに「連峰」型の知の巨人である。

 

ただここで注意すべきは、英文法以外のすべての分野で渡部氏は「素人」だった、という事である。

 

松崎氏は、この点を次のように論評している。

__________
 渡部昇一は“素人の人”である。

 何事であろうと、素人として疑問を感じると、相手が大家であれ、斯界の権威であれ、その疑問をぶつけるからだ。

 

「素人が口を出すな」といわれようと、おかしいと思ったらそれを口にする。あるいは文章にして発表する。

 

ジャーナリスト・立花隆との論戦に発展した「角栄裁判」のケースなど、その格好のケース例である。[1, p191]
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「角栄裁判」のケースでは、元首相・田中角栄がロッキードから5億円を受けとったとして一審で有罪判決が出て、角栄側が控訴すると、元最高裁長官が「一審の判決に服すべきだ」と発言した。

 

これに対して、一審に不服があれば、高裁、最高裁に上告できるというのは国民の権利ではないか、と渡部氏は批判したのである。

 元最高裁長官と言えば法学の最高権威である。

 

それに英文法学者が法律の問題で立ち向かったのだから、ドン・キホーテ並みの突進もいいところだ。

 

一方、この長官は「渡部氏は法律の専門家でもないから反論しなかった」と発言したと伝えられている。

 素人なのに最高権威にも立ち向かっていく渡部氏と、素人相手の議論はしない専門家と、姿勢の違いは鮮明である。


■2.素人の国民が言挙げするのが民主主義の基本原理

 たとえば英文法というような特殊な学問分野なら、専門家が素人とは議論しないというのはあっても良いだろうが、こと国政上の問題に関して「素人とは議論しない」という姿勢は、民主主義政治の根幹を否定する姿勢である。

 そもそも民主主義とは、一般国民が政治上の決定権を持つ制度である。

 

政治家は自らの主張を国民に訴え、国民がその賛否を選挙における投票で示す。

 

同様に最高裁判所の裁判官に関しても、国民審査の投票によって、その職責にふさわしくない者は解任される。

 

したがって、裁判官もその判決について一般国民に判りやすいように説明する責任がある。

 一般国民とはほとんどの国政上の問題に関して素人であり、政治家や裁判官は専門家である(はずだ)。

 

したがって、政治や裁判の問題に関して、専門家が素人とは議論しないと言ったら、それは国民の主権を無視した姿勢である、ということになる。

 民主主義社会では、素人の国民が政治や裁判でおかしいと思ったことは、どしどし言挙げをするというのが基本原理である。それを徹底的に行ったのが渡部氏であった。


■3.身の危険も顧みずに

 もっとも床屋談義で素人があれこれ言いたいことを言うのは簡単だが、渡部氏の場合は公の場で発言したり、文章で発表する。

 

この「角栄裁判」のケースでは、雑誌『諸君』昭和59(1984)年1月号に「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」と題して、60枚もの文章を発表しているのである。

 しかも当時の左翼が敵視していた田中角栄を弁護するだけに、その中に間違いでもあれば、集中砲火を浴びるリスクも大きかった。

 

実際にジャーナリストの立花隆は「あまりにお粗末な議論」などと罵倒し、「朝日ジャーナル」で「ロッキード裁判批判を斬る~幕間(まくあい)のピエロたち」という連載で渡部氏批判を始めた。

 立花は法律の専門家ではないが、膨大な『ロッキード裁判傍聴記』を書き続けており、この裁判に関しては詳細を知り尽くした専門家である。

 

その「渡部昇一の『知的煽動の方法』」「渡部昇一の『探偵ごっこ』」などと揶揄調の論法に対して、渡部氏は「立花隆氏にあえて借問す」と真剣な議論を挑んだ。


■4.憲法違反の判例が固定化されたら、わが国はどうなるのか

 渡部氏があえて「暗黒裁判」と呼んだのは、検察側がロッキード社側の証人に刑事免責を与えて証言を得ており、弁護側の反対尋問を許さない点にあった

 

これは「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ」という憲法第三十七条に違反する所為であった。

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 刑事被告人が検事側証人に対して反対尋問するという、現憲法に明記されている重大な権利を否定するという判例をそのままにしておいてよいのか。[1, p195]
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 こんな憲法違反の判例が固定化されたら、わが国はどうなるのか、という危機感が渡部氏を突き動かしていた。

 

渡部氏の主張が正しい事は、後の最高裁判決でも追認された。

「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」への取り組みでもそうだが、渡部氏が敢えて素人ながら専門外の問題に果敢に挑んだのは、その道の専門家たちの暴走が国の行く末を危うくすると思われた時だった。

 

国の将来を危うくする問題に関しては、その道の専門家に対しても、自らのリスクなど考えずに挑戦していったのである。


■5.「素人としての知」をどう身につけるか

 国の前途を憂う渡部氏の危機感が専門外での多様な著作群をもたらし、それによって多くの国民が啓蒙された。

 

この危機感が氏の豊穣な知的生産の原動力だったのだが、我々一般国民として、もう一つ学ぶべきなのは、多くの分野の専門家にも屈しない「素人としての知」を渡部氏がどのように身につけたのか、という点である。

 この「素人としての知」は、国民が素人として様々な分野の専門家を使っていかねばならない民主国家の欠くべからざる基礎である。

 

この「素人としての知」がなければ、国民は政治家、裁判官、ジャーナリストなどの専門家に操られる愚民に過ぎなくなる。

「素人としての知」を育てる秘訣を、渡部氏自身が若い頃に学んだと思われる逸話が残っている。

 渡部氏の両親は貧しくて、小学校の卒業証書も持っていなかった。

 

その母親・八重野が、戦後まもなくの頃、東大経済学部教授・大内兵衛の「鉄、石炭といった重要な物資は私企業に任せると格差が生じるから、国家が管理して公平に配分すべきだ」という趣旨の主張を小耳に挟んで、こう言ったという。

「それは配給にしろということじゃないの。勝手に商売させないような政治はどんなに立派なことをいってもダメよ」と。

 

小学校も出ていない母親が、東大教授の論をばっさり切り捨てたのである。

 渡部氏は後年、ノーベル経済学賞を受賞するフリードリヒ・フォン・ハイエクが何度も来日講演をした時に通訳を務めた。

 

そしてハイエクから学んだ事を次のように要約している。

__________
 ハイエクがいいたかったのは(中略)自由市場に政府が干渉すると結局人間の自由が根こそぎ失われるということなのである。[1, p101]
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 自由市場経済を否定する共産主義や全体主義が独裁国家と化し、多くの国民を虐殺・虐待した事が20世紀の人類の経験した巨大な悲劇であった。

 

その悲劇がなぜ生まれるのか、を分析したのがハイエクの学問だったのだが、小学校も卒業していない母親が、ノーベル賞を受賞した経済学者と同じ事を言っていたのである。


■6.現実の経験か、机上の空論か


 なぜ無学の母親がノーベル賞経済学者と同じ指摘ができたのか。

 

 

この点は「それは配給にしろということじゃないの」という言葉が明らかにしている。

 

 

戦時中の国家総動員体制で行われた配給制度は、一種の計画経済であった。

 

 

それに真面目に従う人はひどい目に遭い、ずる賢い人は闇市で儲けたという経験を母親は味わっていたのだろう。

 いくら東大教授が崇高な理想と合理的な理論を持って説いても、それが配給の失敗という現実の経験に基づいていなければ、机上の空論である。

 

 

実際の経験よりも机上の理論を重視するというのは、多くの専門家が陥りやすい陥穽である。

 フランス革命もロシア革命もシナ革命も、机上の空論を強行し、人類全体で1億人とも言われる犠牲者を出した。

 

 

「人間はそれほど賢くない。我々が知らないことは沢山ある。

 

 

だから一歩ずつ、闇夜を手探りで前進していこう」というのが、健全な保守主義者の姿勢なのである。

 この闇夜の例を使えば、計画経済でやっていこうというのは、頭で考えだした地図に基づいて、闇の中を突っ走るようなものだ。

 

 

地図に書かれていない岩でもあれば、躓いて大怪我をしてしまう。

 そして専門家ほど自分の専門分野に自信を持っているので、闇夜の岩に躓きやすいのである。現実世界でどこにも成功したことのない共産主義にあれほど多くの知識人が惑わされた原因もここにある。


■7.「本当に分かる」ということ

 現実の経験に基づいて自分の頭で考えるという姿勢が、渡部氏の場合は常人離れして徹底していた。

 

 

それを教えてくれたのが、旧制山形県立鶴岡中学校で渡部氏が出会って生涯の師と仰いだ老英語教師・佐藤順太だった。

 佐藤先生は17世紀のイギリスの哲学者フランシス・ベーコンのエッセイ「学問について」を取り上げ、文法から単語の意味まで精しく吟味していく。

 

 

1時間に1行しか進まない時も何回もあった。渡部氏には、それがゾクゾクするほど面白かった。

 ある時、佐藤先生から「"nowadays"(近ごろ)という単語にはなぜsがついているのか?」と問われた。

 

 

「s」が複数形を作るということを覚えていただけでは、説明にはならない。ほかの英文科の先生たちに聞いて回ったが、誰も答えられない。

 それが分かったのは2年後、渡部氏が大学に入って、英文法の本を読んでいたときだった。

 

 

Sには副詞を作るという強力な働きがある。

 

 

夏休みに帰省して、佐藤先生にこの発見を伝えると、にっこりとして「そういう疑間を一つでも自分で解くと、うんと力が伸びるものだ」と言われた。

「本当に分かる」とはどういう事が分かると、渡部氏は「わからない」と言うことを怖れなくなった。

 

 

大学の英文科ではむずかしい話をわかったように偉そうに言うのが普通であったが、渡部氏は英詩の大部分は不自然でわからない、と公言して憚らなかった。

 後にアメリカの大学に招聘されて一年間を過ごした時に、日本語の講談や捕物帖はゾクゾクするほど面白く読めるのに、なぜ英語の小説は面白く読めないのか、と考え、「自分の英語は本物ではない」と結論づけた。

 

 

それからアメリカの通俗小説を読み続け、ついには身体がゾクゾクするほど面白く読めるようになった。

 このように「分からない」という事を恐れないから、「角栄裁判」にしろ「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」にしろ、自分が本当に分かるまで追求していく。

 特に左翼の専門家は、マルクスが大英帝国図書館の机上で壮大な理論をでっちあげたDNAを継承しているせいか、事実無視の思い込み、知ったかぶりが多いから、事実を丹念に調べて、自分が本当に分かるまで追求していく、という渡部氏の姿勢にはひとたまりもなく虚構が暴かれてしまうのである。


■8.共同体の中で「共有された思慮分別」

 こうした渡部氏の「素人の知」を大切にした姿勢を辿ってみると、"Common Sense"という言葉がしきりに思い浮かぶ。"Common"とは共同体の中で「共有された」という意味で、たとえばボストン・コモンと言えば、もともとボストンの市民が牛の放牧で共有して使っていた土地である。

 

"Sense"は日本語で言えば「思慮分別」という言葉がぴったりする。

 したがって"Common Sense"と言えば、「共有された思慮分別」となる。

 

一部の専門家だけが持っている知識や理論ではない。

 

良き国民であれば、同様の思慮分別を共有しているはずだ、という前提がその背後にはある。

 

しかも、この「共有された思慮分別」は共同体に属する人々が、代々の歴史的経験から蓄積してきたものである。

「素人の知」と言えば、いかにも「専門家の知」に比べて低級に感じられるが、それは共同体の中で蓄積され、共有されてきた思慮分別なのである。

 

たとえば、戦時下の配給制度のひどさを体験した人々は、渡部氏の小学校も出ていない母親が「勝手に商売させないような政治はどんなに立派なことをいってもダメよ」という言葉に共感しただろう。

 こうした"common sense"で結ばれた共同体としての国民が、専門家としての議員や行政官を選んで使うのが民主主義の原理である。

 渡部氏が生涯を通じて追求してきたのは、徹底した素人の、すなわち一般国民の立場から、歴史家やジャーナリスト、裁判官など専門家の暴走を批判し、それによって国民の"Common Sense"を守り、深めてきたことではなかったか。

 

とすれば、渡部氏の生き様を天才として敬して遠ざけるのは、氏の本望ではないだろう。

 国民一人ひとりが自身の体験をもとに「本当に分かる」まで、物事を突き詰めて考える、それによって心中の「共有された思慮分別」の根っこを太く深く伸ばしていく。

 

それが自由民主主義国家としての日本を強くし、ひいては日本国民をより幸福にしていく道なのである。我々が渡部氏から学ぶべきは、この道だろう。
                                        (文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(702) 日本語が育てる情緒と思考
 情緒を養う大和言葉の上に、論理的思考を支える外来語を移入して、我が国は独自の文明を発展させてきた。
http://blog.jog-net.jp/201106/article_2.html

b. JOG(913) 「歴史戦争」を斬り返す ~ 渡部昇一『歴史の授業』から
「我々の子孫にそんな思いをさせては、いかんのですよ」との思いで、85歳の老碩学が「歴史戦争」を戦っている。
http://blog.jog-net.jp/201508/article_5.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 松崎之貞『「知の巨人」の人間学 -評伝 渡部昇一』★★★、ビジネス社、H29
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■『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』へのアマゾン・カスタマー・レビュー(抜粋)

■■評価★★★★★(towsonさん)

 特に、江戸末期から近代にかけての歴代の天皇皇后両陛下の逸話を読んでいくと、「利他心」が皇室の基になっていること、そしてだからこそ「万世一系125代」という途方もなく長く濃密な歴史を積み重ねてこれたのだということが、すんなり腹に落ちることでしょう。

■■評価★★★★★(河谷隆司さん)

 三章の末尾の語源の話しは楽しい。「こんにちは」は太陽。「元気」は元の気だから太陽の気(エネルギー)。

 

「さようなら、ご機嫌よう」が、太陽の気を頂いているのなら、ご気分がよろしいでしょう、を意味すると! 心に安寧を頂いた著者に心から感謝したい。

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伊勢雅臣『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』、育鵬社、H30
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アマゾン「メディアと社会」「ジャーナリズム」カテゴリー 1位(2/1調べ)
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■伊勢雅臣より

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