■■ 国際派日本人養成講座 ■■  歴史教科書読み比べ(46) 冷戦とアジア独立 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

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         歴史教科書読み比べ(46) 冷戦とアジア独立

 共産主義下の人々の苦しみ、アジアの人々の独立への志。そうした過去の人々への共感を生み出す歴史教育とは。

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■1.朝鮮統一か、ソ連勢力圏拡大か

 戦後の日本と世界の転機は朝鮮戦争だった。

 

東京書籍(東書)版はこう記述する。

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1950年には,北朝鮮が武力による統一を目指して韓国に侵攻し,朝鮮戦争が始まりました。

 

アメリカ中心の国連軍が韓国を,中国の義勇軍が北朝鮮を支援して長期化し,1953年に休戦しました。[1, p247]
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 これに相当する部分の育鵬社版の記述は、以下の通りである。

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1950年ソ連の支援を受けた北朝鮮は朝鮮統一をはかって韓国に侵攻し,朝鮮戦争が始まりました。

 

アメリカ軍を中心とする国連軍は韓国を支援して反撃し,これに対し中国が義勇軍を送って北朝鮮を支援するなど戦いは長期化し, 1953年にようやく休戦となりました。[2, p259]
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 両教科書の記述は微妙に異なる。

 

東書版の「北朝鮮が武力による統一を目指して」では国家統一のための闘いと読めるが、育鵬社版の「ソ連の支援を受けた北朝鮮」では、ソ連の勢力圏拡大のための戦いとなる。

 

その後の世界全体を覆った冷戦をみれば、どちらが実態に近いかが明らかとなる。


■2.冷戦が悪い?

 東書版は冷戦を、あたかも喧嘩両成敗のように描いている。

 

冷戦を記述するページの冒頭で、北極を中心としてアメリカとソ連が対峙している世界地図を描き、「東西の対立 ヨーロッパから始まった冷戦は、世界を2つの陣営に引き裂きました」と説明する。

 

そして、冷戦の象徴、ベルリンの壁についてこう記述する。

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ベルリンに造られる壁 西ベルリンは,東ドイツに囲まれた西側陣営の飛び地でした。

 

1961年,東ドイツは,西ベルリンを取り囲むように壁を築き市民が自由に行き来できないようにしました。
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 冷戦によって壁ができ、市民の自由な「行き来」ができなくなった、と言う。

 また冷戦終結後には「ベルリンの壁の崩壊を喜ぶドイツ市民」と題した写真を載せ、「冷戦の象徴であったベルリンの壁は,建設開始から28年後,市民によって取り壊されました」と注釈する。

 

こちらも冷戦が終わって、市民がようやく自由な交流ができることを喜んでいるかのようだ。

 しかし冷戦が悪いというだけでは、喧嘩は良くない、というのと同じで、喧嘩を防ぐ知恵にはならない。

 

歴史教育としては、なぜ冷戦が起こったのかに踏み込む必要がある。


■3.「東ドイツ側住民の西ドイツへの逃亡を防ぐため」

 育鵬社版は「冷戦の進行」の項で次のように書く。

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 1956年,ハンガリーでソ連の支配に反対する暴動がおこると, ソ連は軍隊で弾圧しました(ハンガリー動乱)。

 

また,東西に分断されたドイツでは, 1961年,東西ベルリンを隔てるベルリンの壁が築れました。

 

これは.東ドイツ側住民の西ドイツへの逃亡を防ぐためのものでした。[2, pt260]
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 育鵬社版は「冷戦の終結」という1ページのコラムで、さらにベルリンの壁について詳しく説明している。

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1950年代末に,東ドイツで農業集団化が行われると,東ベルリンから西側に脱出する人が増えたため, 61年東西ベルリンの境界に壁が築かれました。[2,p266]
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 またこのコラム内で「ベルリンの壁の開放を喜ぶ市民」の写真を掲示し、その説明で次のように述べている。

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ドイツのベルリンは,壁によって1961年から28年間,東西に分断されていた。

 

この間南北約45kmにわたって築かれた壁を越えようとして200人近くの死傷者と約3000人の逮捕者が出た。[2, p266]
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 ベルリンの壁を作ったのは冷戦ではない。

 

共産主義の抑圧から脱出しようとする東独国民を閉じ込めておくために、ソ連が作ったものである。

 ベルリンの壁が崩壊して、人々が喜んだのは冷戦が終わったからではない。

 

共産陣営から解放されたからである。共産主義下の人々の苦しみを描かなければ、壁が崩壊して喜ぶ人々への共感も起こらない。


■4.キューバ危機

 ソ連の勢力拡張によって、アメリカとの核戦争一歩手前まで行ったのがキューバ危機であった。

 

この冷戦のクライマックスを、東書版はミサイルを運ぶ船の写真付きで次のように説明する。

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 キューバでは,1959年に革命が起こり,アメリカに協力的な政権がたおされました。

 

ソ連が,キューバに核ミサイル基地を建設し,写真のようにミサイルを運び込むと,アメリカは海上封鎖にふみ切り,核兵器による全面戦争の瀬戸際にまで至りました。[1, p250]
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 そして本文では、「1962年,キューバ危機が米ソ間の核戦争が起こる寸前で解決されると,緊張緩和が本格化しました」とある。

 東書版は「アメリカに協力的な政権がたおされました」と書くが、倒したフィデル・カストロは共産主義者で、武力革命で政権を奪い、すぐに旧政権の要人600人を処刑した[3]。

 

そして国民の大半が信ずるカトリックを弾圧し、教会を取り壊し、教徒を矯正キャンプに送ったのである[4]。

 こうした共産党による人権弾圧を嫌ってカストロ政権下の50年間で、100万人近いキューバ国民がアメリカに逃れたとされている。[5]

 カストロ政権はアメリカ資本の農園やホテルなどを接収し、国有化を押し進めたために、アメリカはキューバと断交した。

 

そこに目をつけたソ連がキューバに大量の経済・軍事援助をし、さらに核ミサイル基地をも作り始めた。

 東書版は「アメリカは海上封鎖にふみ切り、核兵器による全面戦争の瀬戸際にまで至りました」と書くが、これでは海上封鎖が核戦争の危機をもたらしたかのようである。



■5.「喉元にあいくちを突きつけられた」

 一方、育鵬社版はキューバ危機を次のように記述する。

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 中南米のキューバで革命がおこり,社会主義政権が成立すると,1962年にソ連はキューバにミサイル基地を建設しました。

 

これに対しアメリカは,基地の撤去を求めてキューバを海上封鎖し,米ソの核戦争の危機がせまりました(キューバ危機)。

 

この危機は,アメリ力の抗議でソ連がミサイルを撤去したことにより回避され,この事件をきっかけに,米ソの関係は改善されていきました。[2, p260]
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 「海上封鎖」は「基地の撤去を求めて」の事であった。

 

そもそもキューバからフロリダ半島まではわずか145km。

 

そんなところに核ミサイル基地を造られたら、喉元にあいくちを突きつけられたも同然である。

「この危機は,アメリ力の抗議でソ連がミサイルを撤去したことにより回避され」とは、ソ連があいくちを引き上げたので、危機が回避されたと言うことである。

 キューバ危機を引き起こしたのはソ連であった。

 

アメリカが核戦争も辞さない構えでミサイル撤去を要求し、ソ連がそれに屈したので、危機が回避されたのである。


■6.「日本を西側陣営の強力な一員に」

 この冷戦構造の中で、日本のアメリカおよび世界に対する地位も変わっていった。この点を東書版はこう描く。

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 冷戦が激しくなると,アメリカは,東側陣営に対抗するため,日本を西側陣営の強力な一員にしようと考えました。

 

GHQの占領政策は,非軍事化と民主化よりも経済の復興を重視する方向に転換され,労働運動の抑制や,商品の価格などの統制の撤廃が行われました。[1, p248]
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 前号でも述べたように「非軍事化」とは、日本を再びアメリカに対する脅威とならないように「無力化」することであり、「民主化」とはGHQ内部に潜んだソ連工作員たちが日本を共産革命に近づけようとした工作であった。

 

この表現では、アメリカが日本を西側陣営に加えたことで、「軍事化」と「非民主化」の逆コースに進みはじめたように思ってしまう。

 アメリカ国内では、冷戦によってようやく共産主義の脅威が広く認識され、マッカーシズムがソ連工作員の摘発を進めていた。

 

ルーズベルト以来の容共政策を修正し、ソ連との対決姿勢をとれば、日本を西側陣営の最前線に位置づけるというのは当然の外交政策であった。

 

戦前から共産主義の脅威に晒されていた日本にとっても、米国との同盟は当然の国策であった。


■7.「アジアの国々の多くとの間では講和が実現しませんでした」

 この過程で、日本はサンフランシスコ平和条約により、独立を回復して、国際社会に復帰した。

 

この点を東書版は次のように説明する。

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 1951年,吉田茂内閣はアメリカなど48か国とサンフランシスコ平和条約を結びました。

 

しかし,東側陣営の国々や,日本が侵略したアジアの国々の多くとの間では講和が実現しませんでした。(1)

側注(1)この講和会議に中国は招かれず,インドやビルマ(ミャンマー)は出席を拒否し、ソ連などは出席したものの,条約に調印しませんでした。

 

また,東南アジアには,日本が経済上の理由から賠償を軽減されたことに不満を持ち,調印した条約の承認をおくらせた国や,承認を行わなかった国もありました。[1, p249]
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 中国が招かれなかったのは、当時、国共内戦が続いており、さらに中国共産党は朝鮮戦争に参戦して国連軍と戦っていたからである。

 

ソ連が調印しなかったのも、日本を自由主義陣営の一員として迎えよとする平和条約なのだから当然であろう。

 インドが参加しなかったのは、平和条約の中に一部領土の割譲などの項目があり、他国と同様の名誉と自由が与えられてないから、という日本に同情的な立場からであった。

 

そしてほぼ同時期に、すべての賠償請求権を放棄して、個別の平和条約を結んでいる。

「日本が侵略した」フィリピン、ベトナム、ラオスは署名と批准を済ませており、インドネシアは署名はしたが批准はせず、そのかわりに5年後に個別の平和条約を結んでいる。

 

[6]「日本が侵略したアジアの国々の多くとの間では講和が実現しませんでした」との一文は、朝日新聞並みの確信犯的偏向記述である。


■8.「日本が第二次大戦を戦ってくれたお蔭で」

 戦後、この冷戦構造の狭間で、多くのアジアの国々が独立した。

 

育鵬社版はこう述べる。

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 大戦後,アジアやアフリカでは多くの独立国が生まれ,インドネシア(5)のように独立戦争によって独立を勝ち取った国もありました。

 

1955(昭和30)年,この地域の,日本も含めた29か国がインドネシアのバンドンに集まって会議を開き(アジア・アフリカ会議),反植民地主義・平和共存などの平和十原則を決議しました。

側注(5) インドネシアやベトナムの独立戦争では,太平洋戦争(大東亜戦争)終結後も現地に残った旧日本軍将兵の中に独立のために戦った者も少なくなかった。[2, p259]
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 インドネシア・バンドンでのアジア・アフリカ(AA)会議に日本政府代表として出席した加瀬俊一氏は、その時のことをこう書いている。

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 AA会議には、当時、時めいていた、ネール、スカルノ、エジプトのナセル、周恩来、ガーナのエンクルマなどの新興勢力の指導者たちが集まった。

 

スヵルノをはじめとする第三世界のリーダーたちが、「日本が第二次大戦を戦ってくれたお蔭で、西洋の植民地支配から独立することができた」といって、口を揃えて感謝してくれたのが、印象的だった。[7, p31]
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 アジアの指導者の日本への感謝の言葉を聞けば、インドネシアやベトナムの独立戦争に命を捧げた日本の英霊もさぞ泉下で喜んでいるだろう。

 

歴史教育はそのような共感を得る場であって欲しい。

 東西冷戦をさも喧嘩両成敗のように描き、アジア諸国が日本を恨んでいるかのように書くのは、日本の安全を脅かす敵は誰か、友邦はどこかを目眩ますプロパガンダである。

 

そんなプロパガンダでは歴史教育が与えるべき先人たちへの共感は抜け落ち、その空隙を先人への侮蔑に満ちた先入観が満たすのみだ。

 それは中学生たちの若々しい心に対する精神的な暴力ではないか。
(文責 伊勢雅臣)

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(伊勢雅臣) 

 

中学歴史教科書読み比べシリーズは、この第46回で終了といたします。第1回が平成25(2013)年2月でしたので、ほぼ5年かかりました。

 

歴史教科書の正常化に少しでも貢献すべく、これまでの連載内容を大幅改訂の上、来年の春までには出版したいと考えています。

 

その節はまたよろしくお願いします。

 来年からは、中学公民教科書読み比べシリーズを開始いたします。ご期待ください。

 本年の発信は本号で最終とし、新年は1月7日(日)より再開します。本年1年間の御受講、ありがとうございました。良いお年をお迎えください。
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■リンク■

a. JOG(206) サンフランシスコ講和条約
「和解と信頼の講和」に基づき、日本は戦後処理に誠実に取り組み、再び国際社会に迎えられた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog206.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 『新編新しい社会歴史 [平成28年度採用]』★、東京書籍、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4487122325/japanontheg01-22/

2.伊藤隆・川上和久ほか『新編 新しい日本の歴史』★★★、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905382475/japanontheg01-22/

3.Wikipedia contributors. "キューバ危機." Wikipedia. Wikipedia, 4 Dec. 2017. Web. 4 Dec. 2017.

4.Wikipedia contributors. "フィデル・カストロ." Wikipedia. Wikipedia, 22 Dec. 2017. Web. 22 Dec. 2017.

5.「キューバ、移民と亡命」、キューバ研究室
http://estudio-cuba.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-2672.html

6. Wikipedia contributors. "日本国との平和条約." Wikipedia. Wikipedia, 9 Nov. 2017. Web. 9 Nov. 2017.


■伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』へのアマゾン・カストマー・レビュー

■★★★★★世界に誇れる日本人(じゃぐぁさん、ベスト1000レビュアー)

ノーベル賞受賞者の数あるエピソードの中で、大村智教授のものは本当に感動するものの一つでした。
そのエピソードを改めて振り返るところから本書は始まります。

そして先の大戦で敗れた後も立派な態度だった今村均将軍のエピソードは、人の上に立つ日本人であれば、だれもが心に刻むべきものでしょう。

さらに日本陸軍からは、ユダヤ人を救った樋口李一郎少将も登場します。

 

第5方面軍の最後の指揮官として、8月17日以降の占守島の戦いを指導したことをソ連に恨まれますが、同盟国ドイツを無視してユダヤ人を救ったことでユダヤ人が恩返しに助命活動をしてくれたようです。

 

人権を守る本当に近代人とは彼のような人なのでしょう。

また、オーストラリアで散った海軍兵の母の態度も立派すぎて涙が出ます。電車の中で泣きそうになりました。

軍事だけではありません。化学者の高峰譲吉、降伏調印文書に署名した重光葵など、本当に立派な人が多く書かれています。

中学生の読書の友として、子供や孫に送ってみるのは如何でしょうか。学校で日○組の歴史教育で深刻なダメージを受けた若者を救うのは、このような本なのだと思います。

伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594075681/japanontheg01-22/
アマゾン「日本史一般」カテゴリー1位 総合61位(H28/9/13調べ)

■伊勢雅臣より

 先人の生き様への共感を抜きにして、歴史教育はありえない、と思います。

 読者からのご意見をお待ちします。
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