歴史教科書読み比べ(39):韓国併合の影と光 | 護国夢想日記

護国夢想日記

 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

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          歴史教科書読み比べ(39):韓国併合の影と光

 韓国併合への反対派とマイナス面だけでなく、賛成派とプラス面も公正に両論併記すべき。

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■1.「植民地」かどうか

 東京書籍(東書)版中学歴史教科書の韓国併合に関する項では、一頁足らずのスペースに、「植民地」という言葉が4回も出てくる。

 

まず項のタイトルからして「韓国の植民地化」である。その後も、

・日露戦争の最中から、韓国は、日本による植民地化の圧力にされされていました。

 

・また強い権限を持つ朝鮮総督府を設置して,武力で民衆の抵抗をおさえ,植民地支配を推し進めました。

 

・植民地支配は1945(昭和20)年の日本の敗戦まで続きました。

 まるで鬼の首をとったかのような「植民地」のオンパレードだが、一方で、育鵬社版[2]では「植民地」という言葉が一回も出てこない。

 

このあたりに、両教科書の歴然たる違いが見える。日本による韓国統治を「植民地化」と言えるのかどうか、考えて見よう。


■2.連合国家か植民地か

「植民地」とは、ウィキペディアによれば[3]、「国外に移住者が移り住み、本国政府の支配下にある領土のこと」とある。

 

これが本来の語義だろう。北アメリカにイギリス人が移り住んだのは、この意味の植民地である。

 これが「植民地主義」となると、「国家主権を国境外の領域や人々に対して拡大する政策活動と、それを正当化して推し進める思考を指す。

 

政策活動に際しては、資源、労働力、そして市場を経済的に支配することが原動力となる」と説明されている[4]。

 

欧米列強のアジア・アフリカの植民地化はまさしく、この典型である。

 しかし、日本の韓国併合が「植民地主義」に当たるかどうかを考えると、いくつか疑義が出てくる。

 第一は日本と韓国は国家として合併したのであって、韓国は日本の国境内の土地となった。

 

したがって「国外に移住者が移り住み」とか、「国家主権を国境外の領域や人々に対して拡大する」という定義には該当しなくなる。これは定義だけの問題ではない。

 たとえば、イギリスはイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国が連合してできた国だ。

 

だから、連合王国(United Kingdam)という。ウェールズ語やスコットランド語、アイルランド語などは、それぞれの国で公用語となっている。

 ウェールズ、スコットランド、北アイルランドは、長い抗争の末にイングランドに臣従し、条約によって「連合国家」となったのだが、これらの地域はイングランドの植民地とは通常は言わない。

 

国境の中で、共通の国家主権のもと、国民もほぼ同様の義務と権利を享受しているからである。

 これに対して、インドはイギリスの国境外にあって、インドの民は選挙権その他のイギリス国民としての義務も権利も持たなかったが、イギリスの主権の下で統治された。だから植民地なのである。

 ウェールズのような連合国家の一部か、インドのような植民地かの分かれ目は、抗争などの経緯はどうあれ、同じ国の国民として同様の権利や義務を持っているかどうか、という所にある。


■3.一視同仁

 この点で、韓国統治はどうだったのか? 

 

まず参政権に関しては、内地に住む朝鮮人も台湾人も、日本国民男子として選挙権と被選挙権を与えられていた。

 

ハングルによる投票もできた。現実に、昭和7(1932)年の衆議院議員選挙では、東京府から朴春琴が民族名のまま当選している。

 朝鮮や台湾ではまだ選挙は行われていなかったが、そこに住む内地人も選挙権は行使できなかった。

 

これは地域としての準備状況の違いであって、国民の差別ではない。

 

実際に北海道で衆議院選挙が行われたのが明治36(1903)年、沖縄県は明治45(1912)年で、内地の第1回衆議院選挙、明治22(1889)年から遅れること、それぞれ14年、23年であった。

 逆に兵役義務は内地人だけに附され、朝鮮に住もうと台湾に住もうと、その義務から逃れられなかった。

 

大東亜戦争の激化に伴って、朝鮮では昭和19(1944)年から、台湾では昭和20(1945)年から徴兵が行われたが、それに伴って昭和20年4月には朝鮮人7人、台湾人3人の貴族院議員が天皇から任命されている。

 同時に、衆議院の定数として朝鮮で合計23人、台湾5人、さらに樺太3人の枠が設けられた。

 

敗戦により、この選挙は実施されなかったが、参政権、徴兵義務の両面で、徐々に内地並みに近づいていっていたのである。

 文化や歴史、経済発展の状況が異なるので、同じ国になったとは言え、すぐに同じ待遇ができる訳でもないが、国家の理念としては、朝鮮、台湾、樺太は「新附の領土」であり、そこに住むのは同じ日本国民である、と見なされていた。

 こういう状況を見れば、政治的には朝鮮、台湾は、イギリスにとってのインドのような植民地ではなく、スコットランドやアイルランドのような連合王国内の地域であった、と言えるだろう。

 大正8(1919)年の「朝鮮総督府官制改革の詔書」では「民衆ヲ愛撫スルコト一視同仁、朕ガ臣民トシテ秋毫(しゅうごう、いささか)ノ差異アルコトナク」と謳われた。

 

現実にはいろいろな差別もあったろうが、政治理念としては、すべての国民を平等に遇し、その安寧を図っていく、という皇室の伝統的理想が国家方針となっていたのである。


■4.韓国の高度成長

「植民地主義」の定義で、もう一つは「資源、労働力、そして市場を経済的に支配する」という面はどうだろうか。

 たとえばオランダはインドネシアを植民地支配し、耕地面積の5分の1でコーヒーなどのオランダ向け作物を生産させ、その利益はオランダの国家予算の3分の1を占めていたという。

 

そして、この強制により、インドネシアの食料自給体制は崩壊して、餓死者が続出し、平均寿命は35歳まで低下した。

 

このように経済的利益を吸い上げることが植民地主義の目的である。

 韓国の場合はどうか? 育鵬社版では「韓国併合後の朝鮮の変化」という表があり、たとえば以下のようなデータが示されている(一部のみ抜粋)。

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調査年度     1911年     1936年
人口     1283万人   2137万人
米生産量    978万石   1941万石
普通学校数  306校     2417校
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 わずか25年で人口は1.7倍、米生産量はほぼ2倍、普通学校数に至っては8倍近い伸びである。

 

まさに高度成長と言って良い。

 

この結果は、朝鮮の生活水準を内地並に引き上げるための政府投資によるもので、日本政府の対韓投資は持ち出しであった。

 東書版には、こうした記述は一切ない

 

しかし、不思議なことに育鵬社版の本文でも、この高度成長についての記述がない。あるのは、以下の一文である。

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 わが国の朝鮮統治では,併合の一環として近代化が進められまししたが,米の作づけが強いられたり,日本語教育など同化政策が行われたので,朝鮮の人々の日本への反感は強まりました。[2, p193]
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 わずかに「近代化が進められました」という部分が、この高度成長に触れているのみである。

 

韓国側が日本統治を悪し様に批判するのは勝手だが、我が国の歴史教育としては、高度成長の史実を客観的なデータで粛々と語れば良い。

 以上のように、政治的にみても、経済的に見ても、韓国併合は「植民地化」ではなく、「国家連合」であった。

 

したがって、育鵬社版が注意深く「植民地化」という言葉を避けているのは、正確な表現なのである。


■5.「武力を背景に韓国内の反対をおさえて,併合を行った」

 こうした高度成長でどんなに良い結果が得られたとしても、朝鮮人の自由を踏みにじって、その主権を奪ったのは不当である、という批判もあるだろう。

 実際に育鵬社版は「1910(明治43)年,政府は韓国併合に踏み切り」の本文で、「韓国併合」に関して、次のような則注を加えている。

__________
 日本は武力を背景に韓国内の反対をおさえて,併合を行った。韓国の国内には.民族の独立を失うことへの抵抗がおこりその後も独立回復の運動が根強く行われた。[2, p193]
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 東書版では、さらに詳しく、こう述べている。

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 1907年には韓国の皇帝が退位させられて,軍隊も解散させられました。

 

韓国の国内ではこうした動きに対する抵抗運動が広がり,日本によって解散させられた兵士たちは農民とともに立ち上がりました(義兵運動)。これは日本軍に鎮圧されましたが,日本の支配に対する抵抗はその後も続けられました。[1, p180]
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 これはこれで事実の記述ではあるが、きわめて一面的である。というのは、韓国内での巨大な合邦推進勢力があったこと、

 

そして、併合が日韓両政府の合意によってなされたことが書かれていないからである。以下のその事実を見ておこう。


■6.対日協力をした100万人の一進会

 日露戦争初期に朝鮮北部を旅して『朝鮮の悲劇』を書いたカナダ人記者F・A・マッケンジーは「どこでも韓国の国民からは日本軍に対する友好的話題ばかりを聞かされた。

 

 

労務者や農民達も友好的であった」と書き記している。

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 下層階級の人々は、日本が自国の地方官僚の圧政を正してくれるやうにと希望してゐたし、上流階級の人々の多くは、朝鮮の遠大な改革は外国の援助なしには遂行し難いと確信してをり、そのため日本に心を寄せてゐたと云はれる。[7, p123]
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 その「日本に心を寄せていた」人々の集まりが「一進会」で、当時会員数、百万、韓国最大の政党と言われた。

 

 

日露戦争当初、朝鮮鉄道は釜山から京城(ソウル)までしかなく、日本陸軍は満州に武器弾薬を輸送するのに困窮していた。

 

 

これを助けるべく、15万人もの一進会員が手弁当で鉄道敷設工事に参加した。また物資運搬を助けた会員も11万5千人もいたと伝えられている。[7, p124]

 1907年から日韓併合翌年の1911年までに日本軍と戦った「義兵」は14万人を超えると言われているが、その2倍ほどの人数が1904年から05年にかけての日露戦争時には、日本に協力しているのである。

 

 

「義兵」を書くなら、こうした対日協力も書くべきではないか。


■7.「韓国併合二関する条約」は違法か?

 明治42(1909)年、一進会は「我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」との声明を発した。

 これを受ける形で、明治43(1910)年8月22日、「韓国併合二関する条約」に寺内正毅・韓国統監と李完用総理が調印し、29日には大韓帝国皇帝が勅諭を公布して成立させている。

 近年、この条約の違法性を国際社会に認めさせようと、韓国側の強いイニシャティブで「韓国併合再検討国際会議」が3回も開かれた。

 

 

韓国側の主張は「武力で強制された」「条約に国王の署名がない」などを根拠にしたものだったが、いずれも英国の学者らから反論された。

「武力で強制されたから無効」などと言ったら、戦争後に勝者と敗者の結ぶ講和条約はすべて無効となる。

 

 

「国王の署名がないから無効」と言ったら、国家元首が署名しない条約はすべて無効となってしまう。

 

 

併合条約は当時の首相が全権大使として皇帝のかわりに署名しているのだから、戦後、日本が結んだサンフランシスコ講和条約と同じである。

「世界的に『韓国併合ニ関スル条約』は当時の国際法上合法であるとするのが多数派であり、違法論は現在では、大韓民国(韓国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)以外の国では少数派である」とされている。[8]


■8.賛成論も反対論も、両面を記述すべき

 また、国際法の権威ジェームズ・クロフォード・ケンブリッジ大学教授[4]は、当時の国際慣行法からすると英米を始めとする列強に認められている以上、仮に手続きにどのように大きな瑕疵があろうとも「無効」ということはできない、と指摘している。[9]

 英米は「認める」どころか、韓国併合を日本に勧めたのである。

 

 

日露戦争のポーツマス講和会議のあとで、ルーズベルト大統領は小村全権代表に、「将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみ。

 

 

それが韓国の安寧と東洋平和のため最良の策なるべし」と言った。

 イギリスのランズダウン外務大臣も「英国は日本の対韓措置に異議なきのみならず、却って欣然その成就を希望する」とまで言い切った。

 英米の後押しは、韓国の変転極まりない事大主義が、日清戦争、日露戦争を誘発したからである。

 

 

その意見が正しかったことは、日本統治が始まってから大東亜戦争敗戦まで、朝鮮半島は35年間の平和と繁栄の時代を迎えた事で証明されている。韓国経済の高度成長もその間の出来事であった。

 韓国併合という大きな政治的事件には、当然、賛成派も反対派もいた。

 

 

マイナス面もプラス面もあった。歴史教科書としてはその両面を公正に記述すべきである。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG Step 韓国問題-歴史編
http://blog.jog-net.jp/201402/article_5.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 『新編新しい社会歴史 [平成28年度採用]』★、東京書籍、H27
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2.伊藤隆・川上和久ほか『新編 新しい日本の歴史』★★★、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905382475/japanontheg01-22/

3. Wikipedia contributors. "植民地." Wikipedia. Wikipedia, 23 Jul. 2017. Web. 23 Jul. 2017.

4. Wikipedia contributors. "植民地主義." Wikipedia. Wikipedia, 21 Apr. 2017. Web. 21 Apr. 2017.

5. 榊原智「併合朝鮮をめぐる国政参政権付与」、iRONNA
http://ironna.jp/article/1308

6. 日本会議「インドネシアにおけるオランダ350年と日本3年半の統治比較」
https://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/856

7. 中村粲『大東亜戦争への道』★★、展転社、H2
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4886560628/japanontheg01-22/

8. Wikipedia contributors. "韓国併合ニ関スル条約." Wikipedia. Wikipedia, 5 Jun. 2017. Web. 5 Jun. 2017.

9. Wikipedia contributors. "韓国併合再検討国際会議." Wikipedia. Wikipedia, 22 Feb. 2017. Web. 22 Feb. 2017.


■1015号 「マラリアと戦う日本の蚊帳」へのおたより

■蚊帳の思い出(直彦さん)

 前号の蚊帳の話の延長で、「アフリカの蚊帳の思い出」と言うのを読み、私自身の小さい頃を思い出しました。

 中学校の修学旅行で、旅行先で蚊帳を吊って寝たのを思い出しました。「同じ釜の飯」と同じで、「一つ蚊帳の下」で寝たときの一体感は、素晴らしいものではないでしょうか。

 それより、もっと遡って小学校のころ、寝苦しい夜に蚊帳の中で、母親にうちわで扇いでもらいながら寝たときの幸せを思い出しました。

 

 

昨今では、このような親子の「会話」がなくなったのではないかと思います。この「蚊帳の文化」は、日本独特で日本人の心に響くものがあったのでは無いでしょうか。

 昨年、実は私の母親が95歳でなくなったのですが、この蚊帳の話を聞くまでは、死ぬ前の苦しい表情の顔ばかり思い出していたのですが、蚊帳から、幼い時の思い出がよみがえりました。ありがとうございました。


■伊勢雅臣より

 ご母堂の「死ぬ前の苦しい表情の顔」だけでなく、「幼い時の思い出」も、ご自身の大切な歴史の一部ですね。