南丘喜八郎  何ぞ黙して身を亡さむや 7月号 巻頭言 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

南丘喜八郎  何ぞ黙して身を亡さむや 7月号 巻頭言
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 『古事記』は、天武天皇の勅命により編纂が始まり、和銅五年(七一二)に完成した我が国最古の歴史書である。今年は『古事記』完成から千三百年という節目の年に当る。



『古事記』編纂の背景には、我が国最大規模の国家危機、兄・天智天皇との皇位継承をめぐる争いである「壬申の乱」と、その遠因となった大唐帝国の勃興があった。
 


天智十年(六七一)十月十九日、旧暦だからもう冬である。慌しく近江京を発った大海人皇子は降り頻る雪交じりの氷雨の中、吉野への逃避行を続けていた。


同行したのは妃讃良皇女、草壁、忍壁の両皇子、舎人二十余人、女官十余人ら、僅かな人数であった。二日前の十七日、病を得て重態に陥った兄の天智天皇は大海人皇子を病床に呼んだ。


天智は「朕、疾甚し。後事を以て汝に属く」と、難局を迎えた大和王朝の後事を託した。しかし、陰謀と疑った大海人はこれを辞退、天智の皇后である倭姫王を天皇に立て、大友皇子が皇太子として国政を執るべきだと進言し、自分は出家したいと申し出た。


天智が許可すると、大海人は直ちに内裏仏殿で髪を下して僧形となり、翌々日、僅かな従者を連れ、吉野に向かったのだ。この時、天智の側近は「虎に翼を着けて放てり」と嘆息した。
 


実は同年正月、天智は長子大友皇子を太政大臣に任命した。この人事は自分の後継者は大海人ではなく、大友だとの意志を示していた。兄と共に国事に奔走し、自分が後継者だと信じていた大海人の受けた衝撃は大きかった。
 


近江朝廷からの追っ手に気遣いながらの緊迫した吉野逃避行の途次、大海人は次の歌を詠んでいる。
 


み吉野の 耳我の嶺に 時なくそ 雪は降りける  間なくそ 雨は零りける その雪の 時なきが如 
 その雨の 間なきが如 隈もおちず 思いつつぞ来し その山道を (『万葉集』巻一・二五)
 


同年十二月、天智天皇は四十六年の生涯を閉じた。天智の死後、大友皇子は近江朝廷の最高首脳として、事実上の天皇として君臨した。大友皇子は、「魁岸奇偉(優れて逞しく、立派)、眼中に精耀あり、顧???(目元が美しく輝く)」と評されていた。


漢詩を能くし、語学に堪能、唐との交流に熱心なグローバリストだ。父天智の後継者として、大唐帝国の中央集権体制を模倣した律令体制の完成こそが理想だった。
 


八年前の天智二年(六六三)、百済救援のため白村江に向った我が水軍は唐・新羅連合軍に敗れ、天智時代は国家体制の整備と国土防衛の強化に迫られた。


当時、唐は最大版図を実現し、巨大帝国となった。その後、唐は高句麗を滅ぼし、我が国をも屈服させることが、唐の課題だった。我が国は唐の軍事的脅威に晒されていたのだ。 
 


近江朝に君臨した大友皇子は、吉野に去った大海人に警戒心を解かず、近江から飛鳥に至る要所の監視、警備を続けた。



大海人側はこの警備体制を吉野攻撃の準備として、警戒を怠らず、両者の緊張は高まった。大友皇子が山陵造営と称し、東国から人夫を集め武装させているとの情報に接し、大海人は決起を決意する。
 


「然るに今、已むこと獲ずして、禍を承けむ。何ぞ黙して身を亡さむや」。壬申の年の六月二十二日のことである。
 


大海人は直ちに舎人に対し、「美濃の所領の兵を確保し、諸国の兵を徴発、不破関を封鎖すること」を命じ、戦闘行動を開始した。


大海人軍は各地で近江軍を破り、七月二十二日には、退却を重ねる近江軍と瀬田橋で激突、近江軍は総力を振り絞って防戦したが、戦いに利あらず近江朝廷はついに瓦解した。


進退谷まった大友皇子は自ら縊死、僅か二十五歳であった。『日本書紀』は、この戦況を「旗幟野を蔽いて埃塵天に連なり、鉦鼓の声数十里に聞こえ、列弩乱れ発し、矢の下ること雨の如し」と記す。激しい戦いだった。
 


古代日本における最大の内乱「壬申の乱」の原因については多くの説がある。明治から大正にかけて最も有力な説は、天智天皇の「大化改新」以降の急進的改革に対する大海人皇子の反動的内乱とするものだった。


しかし、古代日本文化の優れた理解者である和辻哲郎は、天智による大化改新当初の革新的政治が徐々に保守化、軍国主義化したので、大海人は壬申の乱によって保守的貴族勢力を打破、大化の理想を再興した、と解釈した。
 


大海人皇子が即位し、天武天皇となってからの十三年間余、律令制を確立し、中央集権を強化することに全力を尽した。天武の業績として特筆すべきは、国家が永遠の生命を保ち続けるための精神的骨格として国史の編纂を命じ、『古事記』『日本書紀』を後世に遺したことである。



壬申の乱が起きた六七二年、奇しくも「開元の治」と呼ばれる唐の絶頂期を創出した玄宗皇帝が没している。
 


いま我が国は内憂外患国家最大の危機を迎えている。皇室問題も然り。私たちは、古代日本を命懸けで生き抜き、国体を守り抜いた先人の懸命さと真摯さに学ばねばならない。
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「蘇れ美しい日本」  第1213号


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