南丘喜八郎   「其外形ニ眩シテ其精神ヲ忘ル」 | 護国夢想日記

護国夢想日記

 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

南丘喜八郎   「其外形ニ眩シテ其精神ヲ忘ル」
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 明治4年11月12日、岩倉具視を特命全権大使とする岩倉使節団が横浜港を米国に向け出港した。

 我が国は欧米の先進文明を吸収せんと、激動する国際政治の真只中に、大久保利通、伊藤博文ら維新の中心人物を挙って米欧先進国へ送り込んだ。留守を預かるのは西郷隆盛ただ一人。しかも1年10カ月余もの長期間である。

 大胆不敵ではあるが、暴挙とも言うべき維新政府の不退転の決断だった。
 帰国後、大久保、伊藤らは維新政府のリーダーとして国政を牛耳ることになるが、彼らが勇猛果敢に突っ走ったのは「富国強兵」を旗印にした、アジアでの強大な文明国を目指す「脱亜入欧」の道であった。

 この岩倉使節団には、後に自由民権運動の旗手となる中江兆民も留学生として参加していた。フランスに留学した兆民は、ルソーの徹底した民主主義理論を学び、後に「社会契約論」を翻訳して『民約訳解』を出版し、「強兵なき富国」を主張、明治政府との峻烈なる対決姿勢を持して生涯を貫く。

 時を同じく米欧文明諸国を見聞したが、大久保、伊藤ら維新政府のリーダーと中江兆民の目指すべき国家像の違いは、明治国家の黎明期にあって、日本近代化の決定的な岐路となったのである。

 岩倉使節団の一行が先進国である米国や欧州諸国における文明の実態を目の当たりにした時の、驚愕と讃嘆、羨望は測り知れない。日本との巨大な格差に落胆、時には意気阻喪したに違いない。


米国から欧州に入った一行は、明治6年3月15日、ベルリンでプロシアの宰相ビスマルクから衝撃的な演説を聞くことになる。

 曰く「方今世界ノ各国、ミナ親睦礼儀ヲ以テ相交ルトハイヘトモ、是全ク表面ノ名義ニシテ、其陰私ニ於テハ、強弱相凌ギ、大小相侮ルノ情形ナリ。欧州親睦ノ交ハ、未ダ信ヲオクニ足レズ。是予ガ小国ニ生シ、其情態ヲ親知セルニヨリ、尤モ深ク諒知スル所ナリ」(久米邦武『米欧回覧実記』)

 西欧列強は口では「万国公法」を唱えるが、その実態は弱肉強食の熾烈な勢力争いであり、遅れて先進国に仲間入りしたプロシアや日本は、民権ではなく、国権を最優先にすべきだ、ビスマルクはこう大久保らに説いた。

 米欧回覧を終えた岩倉使節団は帰路セイロンに立寄り、豊かで美しい自然を「人間ノ極楽界ト覚フガ如シ」とは感じたが、人々は怠惰にして進取の気性に乏しいと断じたのである。「古ノ語ニ曰、沃土ノ民ハ惰ナリト」。
 

米欧を見聞し、「文明」に対する確信を持つに至った彼らは、物質文明の揺るぎない信奉者となったのだ。

 一方、フランス留学を終え、帰国の途に就いた兆民がベトナムのサイゴンで見たのは、暴虐の限りをつくす西欧文明国によるアジア侵略の実相だった。欧米人がベトナム人を犬豚同然に扱い、平然としていた。

「世ノ蒙昧ノ民ヲ見ルトキハ、宜ク循々然トシテ之ヲ導イテ、徐々ニ夫ノ文物制度ノ美ヲ味ハハシム可シ。・・・己レノ開化ニ矜伐シテ他邦ヲ凌蔑スルガ如キハ、豈真ノ開化ノ民ト称ス可ケン哉」(中江兆民『論外交』)

 明治8年6月、大久保利通を中心とした明治政府は朝鮮に対し軍事挑発を行い、江華島事件を引き起こした。翌年2月、日朝修好条規を締結し、釜山、仁川など3港の開港、治外法権、無関税貿易などを強制し、条約期限も記載しないなど、日本が幕末に西欧列強と結んだ不平等条約より過酷なものだった。

 愛国の儒者崔益鉉は日本全権黒田清隆に対し、「今の日本は寇賊である。西洋に被れ、只管貨色のみを知り、人の理を弁えない洋賊と成り果てた。吾が上疏を聞き入れなければ、この首を刎ねよ」と訴えた。日本軍に捕縛された崔益鉉は、長崎県対馬に連行されたが、食を拒み餓死した。

 以後、我が国は軍備強化の道を驀進し、アジアを踏み台にして、独立と近代化を成し遂げた。

 明治政府は同じ「富国」を目指しながら、兆民の志した「強兵なき富国」の方向とは大きく隔たり、「富国強兵」を突き進んだ我が国は、遂に大東亜戦争敗北への道を直走ることになる。

 兆民は後年、岩倉使節団を次のように評している。

 「文明ノ効果ニ狂シテ、一夜ノ中ニ我日本国ヲ変ジテ純然タル欧米ト為サント欲セシ者。其外形ニ眩シテ其精神ヲ忘ル」(『流行ノ論』)
(月刊日本2月号 巻頭感より)
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「甦れ美しい日本」  第1114号より。