地球史探訪ーフイリピン少年が見たカミカゼ | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

地球史探訪: フィリピン少年が見たカミカゼ

 なぜカミカゼの記念碑がフィリピンの地に
建てられたのか。
■転送歓迎■ H19.11.25 ■ 35,711 Copies ■ 2,693,809 Views■


■1.フィリピンに建てられたカミカゼ記念碑■

 フィリピンの首都マニラをしばらく北上して、市街地から出
ると広大な田園地帯が広がっている。南国の豊かな日差しを浴
びて、元気のよい緑が広大な平地から遠くの山々を覆っている。
南九州から沖縄、台湾の景色と明らかな連続性を感じさせる。

 さらに北上すると、広大な平野の中の道路脇に、ポツンと小
さな霊園のような敷地がある。四角い壁に囲われた中に横に長
い石碑が立っている。筆者が訪れた時には、車の交通もまばら
で、あたりは静かだった。

 これがフィリピン人ダニエル・ディソンが奔走してフィリピ
ン政府により建立されたカミカゼ記念碑である。このあたりは
先の大戦中、日本軍が使用していたマバラカット飛行場であり、
ここから最初の神風特別攻撃隊が飛び立った。記念碑には、ディ
ソンが書いた次のような碑文が記されている。

 第2次大戦終結までに、カミカゼはアメリカ軍艦を総計
322隻撃沈または大破、9千人以上の海軍軍人を戦死さ
せ、一方、5千人のカミカゼ隊員の内4600人が自殺攻
撃にて戦死した。カミカゼは、世界史上比較しうるものの
ない全く大胆不敵なものであった。

 歴史的調査が明らかにしたところによれば、カミカゼを
支えた信条とは、世界のすべての民族に対する機会の均等
と親睦が、自らの死によって実現されることを心底から願っ
て自らの身を捧げたカミカゼ志願者達の思いである。
[1,p237]

 ディソンが大戦中に日本軍人と出会ったのは11歳の時であっ
た。一人のフィリピン少年はどのような思いで、このような記
念碑を造るに至ったのであろうか。

■2.12月の深い青色の空に白く輝く機体■

 1941(昭和16)年12月8日、午後1時頃、昼食を終えたディ
ソン少年が立ち上がった所で、突然地面が揺れ、窓がガタガタ
と鳴った。祖父が「地震だ、地震だ」と叫んだ。

 その後に、ゴーという低い轟音がして、続いて、ポップコー
ンが破裂するような音が空から降ってきた。窓に駆け寄って空
を見上げると、小さな破裂した煙がいくつも見え、そのはるか
上に爆撃機の編隊が二つ見えた。初めて見る日本軍だった。地
震だと思ったのは、その爆撃機が落とした爆弾だった。近くに
あるクラーク飛行場は、アメリカ軍の極東での主力基地である。
そこを日本軍が急襲したのだった。

 祖父は「何故日本がこんなところを攻撃できるんだ。日本は
ずっと遠くにあるはずじゃないか」と叫んでいた。祖父は新聞
で日中戦争の事を知っており、また近くに住む中国人が日本人
は残虐だと触れ回っていたので、日本軍をとても恐れていた。

 もちろん私は日本軍をとても恐れてはいました。しかし、
その時心の中では密かに日本軍のことを賞賛していました。
何しろ決して敗れないはずの白人を、私達と同じアジア人
の日本人がやっつけているのですから。

 私達は皆、日本の爆撃機の数を数えていました。私はそ
の光景を忘れません。12月の深い青色の空に機体が白く
美しく見えました。[1,p38]

■3.日本兵から貰った乾パンと金平糖■

 年が明けて1月1日、日本軍がディソンの住むアンヘレスの
町にもやってきた。アメリカ軍とその指揮下にあるフィリピン
兵たちは、散発的な抵抗をしながらも、南に逃げていった。

 ディソンの一家は戦闘を逃れて、深い谷間に数日隠れていた
が、ようやく静かになったので、町に戻ってきた。町には大勢
の日本兵がいた。ディソン少年の伯父はマニラで日本人と働い
たことがあるので、「『アリガト』と言え」と、教えてくれた。
そこで、ディソンらが「アリガト! アリガト!」と言うと、
日本兵はみな笑い出した。何かひどい扱いを受けるのではない
かと心配していたディソンは、少しほっとした。

 日本兵たちは、ポケットから何かを出して、子供達に渡した。
ディソン少年も一つ貰ったが、それは布でできた小さな袋で口
をひもで縛るようになっていた。巾着である。明けてみると、
小さな四角いビスケット(乾パン)と砂糖のボール(金平糖)
が入っていた。

 それが、ディソンが日本兵からもらった最初のものだった。

■4.日本軍将兵とフィリピンの子供達■

 やがてディソン少年は、日本兵たちとバスケットボールをし
たり、また知り合いが日本軍の炊事場で働くようになると、そ
の手伝いをするようになった。

 ヤマカワ中尉という25歳くらいの人が、ディソンを自分の
弟に似ていると言って、可愛がってくれた。よくディソンの手
をとって、一緒に散歩をした。

 ある時、ヤマカワ中尉はディソンが描いた絵を見て、「うー
ん、ベリーグッドじゃないか」と言った。そして時々、白い紙
を鉛筆をくれて、自分や部下の絵を描かせた。

 妻子を故郷においてフィリピンに駐屯している日本軍将兵た
ちにとって、フィリピンの子供達は心を和ませてくれる存在だっ
たようだ。

 後にディソンの妻になるエンリケッタも、アンヘレスのすぐ
南のポラックという町に住んでいて、似たような経験をしてい
る。近くに日本軍の飛行場があり、毎日そこに行って、雑草を
引き抜く仕事をしては1ペソ貰う。やがて背の低いがっりとし
た体格の日本兵が、エンリケッタによくキャンディーやクッキ
ーをくれるようになった。

 エンリケッタは飛行士たちとも仲良しになった。飛行士の一
人はエンリケッタを抱き上げて、戦闘機の翼の上に乗せ、その
特設ステージで、エンリケッタは得意の歌と踊りを披露した。

 司令官のマエダさんはそんな光景をいつも見ているだけだっ
たが、ある時、エンリケッタが熱を出して二日も基地に行かな
いでいると、トラックで家まで見舞いに来てくれた。そして袋
一杯のキャンディーとクッキーを置いていってくれた。

■5.鉢巻きをした日本軍の飛行士たち■

 しかし、1944(昭和19)年になると、戦局が悪化し、食糧事
情も悪くなっていった。共産ゲリラや親米派ゲリラの活動が活
発になり、親日派の市長や警察署長、そして日本兵の暗殺が行
われるようになった。日本軍そのものが幹線道路で待ち伏せ攻
撃を受けるようになり、日本の将兵は疑い深くなっていった。
ゲリラを支援した人間や、ゲリラとの疑いをかけられた人々が
処刑された。

 9月21日、アメリカ軍の飛行機がアンヘレス周辺にあるす
べての飛行場を爆撃した。それからは毎日、空襲があった。

 その頃から、アンヘレスで鉢巻きをした日本軍の飛行士たち
を見かけるようになった。日本の兵隊たちは、彼らと街で会う
と、お辞儀をしていた。

 ある晩、この飛行士たちが泊まっている家からピアノの伴奏
が始まり、いろいろな軍歌が聞こえてきた。悲しい調子の曲も
流れた。その一つが「海ゆかば」だった。そして翌朝、彼らは
飛び立つと、二度と帰ってこないのだった。

 こうした事が繰り返されたが、ディソン少年を含めフィリピ
ン人たちは、彼らがどういうことをしているのか、知らなかっ
た。

■6.運命を変えた一冊の古本■

 1945(昭和20)年1月28日、アメリカ軍がアンヘレスを解
放した。アンヘレス周辺には、敗走し、部隊からはぐれた日本
兵たちがうろうろしていたが、ゲリラや米軍などに容赦なく殺
されていった。

 2ヶ月もするとアンヘレスでの生活ももとに戻った。ディソ
ンはしばらくアメリカ軍の身の回りをする仕事をしていたが、
6月には高等学校が再開されたので、仕事を辞めて、学校に通
い始めた。

 1946年7月4日、フィリピンは独立したが、経済はアメリカ
人に牛耳られ、独立とは名ばかりのものだった。共産ゲリラが
政府を攻撃し、街を爆弾などで襲う事件が頻発した。

 ディソンはフィリピン大学の美術学部の奨学生に選ばれた。
美術の勉強の傍らで、歴史にも興味を持つようになった。そし
て、フィリピンの歴史を掘り下げていくと、全く教えられてい
なかった事をいくつも発見した。

 たとえば、フィリピンは16世紀にスペインによって植民地
化される前に西洋文明とは違った文明を発達させていた。その
事を知っただけで、フィリピン人としての誇りを感じた。アメ
リカの植民地時代には、常にアメリカ人の下にいて、その顔色
をうかがっており、かつてフィリピン人の誇りを持ったことは
なかった。

 1963年に大学を卒業すると、画家になるための修行をしなが
ら、伯父と伯母が始めた会社に勤め始めた。

 1965年、35歳の時、ディソンの兄がマニラの路上の古本屋
で、一冊の古本を買った。それがディソンの運命を変えた。

■7.「何かをしなければいけない」■

 その本は『ディバイン・ウインド(神風)』というタイトル
のアメリカで出版されたポケット版の本だった。猪口力平(元
大佐)・中島正(元少佐)著『神風特別攻撃隊』の英訳版であ
る。

 この本を兄から借りて読んでみて、ディソンは衝撃を受けた。
クラーク飛行場やアンヘレス、そしてその隣町でカミカゼが生
まれたマバラカットについて書かれていた。少年の時に見たあ
の鉢巻きをした飛行士達がカミカゼだったのである。

 読み進むに従って、私はこの本により深く結びつき、カ
ミカゼの飛行士達に驚き、心が動かされていきました。私
はカミカゼの意味について深く知っていきました。

 そして、本の最後で、カミカゼの飛行士達の遺書に行き
当たりました。

 これらの遺書を読むと、私はカミカゼのことを記録し残
していくために何かをしなければいけないと強く思うよう
になったのでした。[1,p218]

■8.カミカゼの記念碑建立■

 ディソンは、著者の猪口氏や中島氏と手紙をやりとりして、
カミカゼが1944年10月20日にマバラカットで誕生したこと
を確認した。

 息子達の教育費で生活の方は苦しかったが、そんな中でディ
ソンは政府に、カミカゼが初出撃した飛行場の跡地に記念碑を
建立するよう働きかけた。妻のエンリケッタも学校の教師をし
ながら、ディソンの活動を支えてくれた。幼いころ、日本の飛
行士達と遊んだ記憶が、無意識のうちにそうさせたのかも知れ
ない。

 しかし、状況は最悪だった。ディソンは体調を崩し、1971年
には会社を辞めた。翌年、マルコス大統領がフィリピン全土に
戒厳令を敷き、アンヘレスも共産ゲリラの活動で治安は最悪だっ
た。そんな混乱の中で、もし政府関係者が反日の人間だったら、
ディソンも逮捕されるかもしれない。

 1973年、ようやくチャンスがやってきた。マルコス大統領が
日本からの投資を呼び込もうと、マニラの南郊2時間の場所に
日本将兵の慰霊碑を建てる事を許可したのだ。ディソンはマル
コス政権の観光局長に会って、カミカゼの記念碑を建てる事の
方がずっと重要であることを説いた。局長は賛同した。一週間
も経たないうちに観光局のジャーナリストが取材にやってきて、
ディソンがカミカゼについて話した内容を全国版の新聞に掲載
してくれた。

 こうして1974年にかつてのマバラカット東飛行場の跡地に
「第2次大戦に於いて日本神風特別攻撃隊機が最初に飛び立っ
た飛行場」という碑文が入った記念碑が建立された。

 観光局のジャーナリストが記念碑完成を報道すると、アメリ
カやカナダ、シンガポール、スペインなどから記者が取材にやっ
てきて、カミカゼ記念碑を世界中に報道した。それで世界各地
から観光客やジャーナリストがやってくるようになった。

■9.「アジア人が到達しうる究極のもの」■

 ディソンは、今のフィリピン人は、アメリカと中国、ヨーロッ
パと日本が混じり合ったもので、明確なアイデンティティがな
い事がとても悲しい、と言う。

 私の家にある小さなカミカゼ博物館には、定期的に高校
生や大学生が訪問しますが、・・・私は、カミカゼ精神と
はアジア人が到達しうる究極のものであることを、彼らに
教えているのです。

 カミカゼの精神は、自らのアイデンティティ、自らの名
誉や文化を守るために、自らの命を引き換えにするところ
まで、人は到達できることが出来るのだ、ということを示
しているのです。

 そして、フィリピン人は彼らのような行為をまだしたこ
とがない、と学生達に教えているのです。[1,p305]

 カミカゼの精神が日本人としてのアイデンティティにどう関
わっているのか、それを理解することは、現代の日本人には難
しくなってしまった。しかし、同じく特攻隊員の手紙や遺書を
調べたイワン・モリスの次の言葉が良いヒントになるだろう。
[a]

 むしろ彼らの言葉は、日本人として生まれてこのかた受
けた恩恵にたいして、報恩をしなければならないという気
持ちを表現しているのではないだろうか。恩恵を受けてき
た、今も受けているという気持ちと、いざという時に必要
とあればどのような犠牲を払っても、その恩に報いたいと
いう気持ちが、平戦時を問わず何世紀にもわたって、日本
人のモラルの力強い底流をなしていたと思うのである。
(文責:伊勢雅臣)

 ダニエル・H/デイソン著 「フイリピン少年が見たカミカゼ」

 

 国際派日本人養成講座:日比友好小史より。


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