最近銀河英雄伝説を観終わったのだけれど、あの作品はフィクションすぎるよね。だって現実のクソ政治家はあんなにスカッとする末路を迎えてくれないのだから
 
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*モリカケをやってる連中なんてみんなトリューニヒトみたいに血まみれでのたれ死ねばいいんだ
 
 
 
モリカケは氷山の一角にすぎないが、日本の政治システムは大きな問題を抱えている。そして、考えれば考えるほどこいつは出口のない命題であるように思えてならない
 
 
 
要するに衆愚に陥った議会制民主主義は救いがたいのではないか?という命題
 
 
 
今回は前回の続きとして、そのへんの話を書いてみたいと思う
 
 
 

・日本は衆愚政治に陥っている
 
 
あくまで一端においては、だけど……
 
 
衆愚政治というのは古代アテネで発生したデマゴーグに端を発する民主政治の限界の一つ
 
 
民主政治が国民の総意により形成されるということは国民が救いがたいほどバカなら、政治も救いがたいほどバカになる、ということ
 
 
そして選挙制度による間接民主制において特に仕組みの穴を突くように発生する問題でもある
 
 
つまり国民がバカであることにつけこんで、無能な政治家が人気取りだけで選ばれるポピュリズムの顕現化という話
 
 
たとえば
 

・有能だが顔が悪い政治家
・無能だが顔がいい政治家
 
 
が選挙で戦った時に、後者が勝ってしまうのがポピュリズム
 
 
日本において特にその傾向が強いのが東京都であることは、頭が痛くなる思いではある。まぁ目立つだけで他府県も似たり寄ったりだろうけど。でも小池劇場に踊らされたのも、山本太郎を当選させたのも東京都だから、東京都民は東京都民であることを本来恥じねばならないと思うのだけれど……
 
 
 
東京都政なんかは京都府民であるぼくにはまったくどうでもいいといえばいい話だとして、問題は国政
 
 
モリカケというのは野党の質の低さを端的に示していることは間違いない。これは2017年 衆院選の感想 でも書いたんだけれど、野党の存在意義というのは危機感を与えて与党に仕事をさせること。国政を担っていない、意思決定力もない野党という存在は、表面的には「いてもいなくても変わらない路傍の石」であるから、せめて税金ドロボウとならないよう、与党にちゃんと仕事をさせる役割を担ってもらわないと困る
 
 
現実はどうか?選挙のために野合したかと思えば、小池のババァの人気にあやかって分裂し、内ゲバで潰し合いをするゴミそのもの。言い換えれば野党として無能ということだよね
 
 
野党には野党の役割がある。これが果たせないというのは、無能な政治家を選出しているということ。反権力でもアンチ安倍でもいいけど、野党に投票する有権者が無能を選出しているわけで、これも一種の衆愚だろう
 
 
野党の議席は約3割だから、少なくとも政治家の3割は無能なゴミがやっている、ということになる(そして与党の中にも相当数いるから、総じて無能な政治家が山ほどいるということになる)
 
 
 
野党がちゃんとしていないと与党もちゃんとしないのであるから、バカが野党に無能な議員を選出してしまうと与党も仕事をしてくれないわけだ
 

・ポピュリズムはなるべくしてなる
 
 

しかし絶対に勘違いしてはいけないことがある。政治家の無能を国民が否定する権利はないということ。なぜなら、それは無能を選んでいる国民の責任そのものだから
 
 
この記事でも触れているんだけれど、間接民主制における政治家の功罪は、すなわちそれを選んだ国民にある。政治家が無能なのではない、無能な政治家を選んだ国民が無能なんだ
 
 

この原則を少し読み替えるとこうも言える
 
 
 
衆愚政治家が生まれるのは、それを国民が求めるから。国民が政治家の能力に対して誠実に投票していれば、有能なものが当選し顔がいいだけのバカは立候補すらしなくなる。無能な政治家が立候補するのは、そこに投票するほど国民がバカであるからに他ならない
 
 
 
蛇足だがこれについて、銀英伝では稀有な専制君主である皇帝ラインハルトに対して、ヤン提督にこう言わせている
 

〜(暴君や無能な政治家を)政権につけたのは人民自身です、他人を責めようがありません。まさに肝心なのはその点であって、専制政治の罪とは、人民が政治の失敗を他人のせいにできる、という点に尽きるのです〜
 
 
 
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*ヤン提督と皇帝ラインハルト
 
 
完全に同意はしないが、イメージとしては伝わりやすいと思う
 
 
民主政治において、人々は政治家の失敗を他人のせいにしてはならない、自戒をもって次に生かさねばならない、ということを言っているわけだ
 
 
言い換えれば、民主政治はその構成者である国民が権利と義務、そして責任を持って政治を決定する仕組みであり、間接民主制においては、責任をもって代行者を選ばねばならない
 
 
政治家の無能を否定する権利が国民にないのは、有能な代行者を選ぶ責任を国民が果たさなかったからに他ならない
 
 
 
・衆愚に救いはあるか?
 

たとえばいま、ネット上では野党叩きが基本になっている。確かに叩かれるようなお粗末な野党がダメなんだが、これは後に大きな問題を引き起こしかねない
 
 
つまりネットユーザーの声に乗っかるように、アンチ野党を求心力としたポピュリストが与党の中にも生まれてくるということ。現にネットユーザーの支持を背景に、アンチ野党(アンチマスコミ)を求心力として有名になった政治家も複数いる。彼らが無能と断ずるわけではないが、それに倣って無能が立候補することは容易に想像できる
 
 
衆愚は拡散する、とも言えるかもしれない
 
 
 
野党もそこに投票する人間もバカであるとして、それは決して与党に投票するやつが賢明、聡明、知恵達者、というわけでない
 
 
 
むしろ途方もなくバカである人間ばっかり、というほうがあり得るだろう。同じ教育を同じ国で受けてきたのだから
 
 
 
衆愚は野党にも与党に広がるし、既に広がっていると考えたほうが自然でもあるわけだ。すると結局、国政そのものも衆愚に流されていると考えるべきだよね
 
 
 
しかしここまで考えると壁にぶつかってしまう。それは
 
 

国民が衆愚を引き起こすことは、止めようがあるのか?
 
 

ということ
 
 
衆愚というのは自分で自分の首を絞めることで、いわば自殺みたいなもの。国民の自殺を止める方法があるんだろうか?
 
 
もしくはそんな権利が誰かにあるだろうか?
 
 
衆愚で滅びるならそれはそれで国民の総意の結果であり、国民の勝手かもしれない。それをどうこうするのは余計なお世話かもしれない
 
 
それに衆愚はシステム上、国民が賢くないことから引き起こされる。衆愚を防ぐには国民を賢くするか軍事独裁制でもやってみせるしかないわけだけど、国民を賢くする方法なんてあるんだろうか?
 
 
 
あるいはそれが民主政治の限界に過ぎないのかもしれないし、または経済のように政治も成功と失敗の大きな波を持っているのかもしれないけど、どちらにしても現状の日本の政治、つまり日本国民の意識は手離しで賞賛すべき状態にはないと言える
 
 
まぁ、今後100年を見越してこれらの問題を解決していくのがぼくら若いのの仕事なんだろうけど