生きていると罪を犯す。
意図的な場合もあれば、意図しないで犯す事もある。
意図せず犯してしまった時に人は、自分は悪くないと解釈して自己防衛する場合と、自分が悪かったと解釈して次に同じ罪を重ねないよう反省する場合がある。
この「二度と同じ罪は犯さないという強い決意」を持つ事が、罪の意識である。
法さえ守っていれば、何をやっても罪ではないという考えは、罪の意識を持つ事から逃れられるので、楽である。
しかし、罪の意識をもたない者は進化しない。
ヒトは、大脳はどこまで危険行為を行えるかに挑戦している。
この挑戦する事がエネルギーとなり、生きる原動力となる。
若いうちは、危険行為を積み重ね、大脳の発達につれ、自分や他者の生命の危機を及ぼす危険な行為を抑制する事を学んでゆく。
人間は、この危険行為を積み重ねる過程で実際に死んでしまう事も多々ある。
人類は、このような個体を出来るだけ出さないために、血縁だけではない多数の保護者を持つ事で、人口減少を極力しないよう生き延びてきた。
そして、ルールを作る事によって、保護者の目を減らすことが可能になった。
日本では、学校や企業といった大きい組織で、法を遵守させる事で、効率的に安全な社会を作ってきた。
多数派と同じ行動をとる事に安心を覚え、違うことをすると罪の意識が働くように学習させ、身体に沁み込ませてきた。
法を守る社会性は、社会という組織全体を俯瞰して見れる脳の高次機能である。
しかし、法の解釈を全て専門家に任せると、個々人の行動を起こすか否かの自己判断能力が培われず、一人一人の人間の大脳の進化を阻んでしまう。
おのおのが自分で考えて罪か否かを考える事が、個体としての人間の進化には必要である。
罪とは、自分を含め、組織内の仲間を傷つける事である。
組織内に異分子が発生すると、組織全体を脅かす毒となり、時には組織全体を滅ぼしてしまう事がある。
このような場合、組織として生き残るためには、異分子を排除しなければならない。
この排除する時、罪の意識を持つ者が多い。
しかし、組織内に残して、いじめ殺す事の方がよっぽど罪が深い。
このような場合、組織から追い出す事の方が、むしろ親切である。
だが、この時、追い出しっぱなしにすると、その異分子は死んでしまう。
その異分子は他の組織では、歓迎すべき分子として役に立つ可能性がある。
そこに道をつけるだけで、異分子を殺すことなく排除出来る。
組織内で罪を犯してしまった場合、自分を痛めつける事や、死んでお詫びをするという考え方がある。
自分なんかが生きていて申し訳ないという気持ちである。
罪滅ぼしに自分を痛めつける事で、罪を帳消しにしようとする。
しかし、いくら自分を痛めつけても罪は消えない。
やってしまったことは取り返しがつかないのである。
罪の意識にさいなまれ、苦しみもがく時、もう罰を受けている。
罪の意識が、感謝の気持ちの萌芽である。
神をまつる祭礼などの儀式は、他の命を殺して生きている事への感謝の気持ちを表している。
全ての命に対する「おかげさま」という気持ちは、罪の意識の昇華である。
ヒトは、他の動物にとっての食肉としての役割ではなくなりつつある。
そのかわりにヒトがヒトを食い合っている。
ヒトがヒトに感謝せず、カネに感謝する者が多くいる。
カネを武器に、ヒトを食い物にして、殺し合いを続けている。
ヒトが仲間ではなくなっている。
そして、ヒトを殺すことに罪の意識を持っていない者が今のところ勝者のように見える。
金のために、やむを得ずやりたくない仕事をする人が多い。
結果として身体を壊し、自分という一人のヒトを傷つけている。
生命力を生まない者が生命全体にとっての悪である。
自らの命を燃やしてエネルギーを生み出す事を怠り、死にたくなる者も、罪人である。
生き生きと生きることをあきらめる事が最大の罪である。
カネに感謝するのをやめ、生命に感謝する気持ちを持たないと、生命から人類全体が死刑に処される。