ちょっと、ルールを破るのは楽しい。

だいたい禁止されるような事というのは、やると、とても楽しいので、人間はついやり過ぎてしまい、危険な状況におちいってしまうので、禁止されたり規制されたりする。

 

「いたずら」は、楽しい。

ルールをちょっとだけ冒して相手がちょっと困るのを見て、その後で安心させる事で笑いが起こる。

「この悪さは冗談ですよ」という同じ価値観で物事を理解している者同士である事を、互いが共感出来る事で、意思疎通の喜びが生まれる。

不良グループの団結力は、権威に歯向かうもの同士という共通認識で結びついているから強い。

皆で同じ悪さをして、権威を困らせてクスッと出来る時、共感の喜びを得るのがとてつもなく楽しいから離れられない。

 

いたずらで、相手が困りっぱなしの状態のままで「安堵の無い笑い」は、「嘲笑」になる。

「困った後の双方の安堵感」が無いと、それは「いたずら」ではなく、「いじめ」になる。

こちらが「いたずら」のつもりでも、相手がいたずらだと思わないと、いたずらは成立せず、相手方にとっては、「いじめられた」と、とらえてしまう。

双方が、これは「いたずらである」という認識が無いと、やられた側は「いじめられた」と思ってしまう。

 

紛争の多くが、双方の意思疎通のそごから起きている。

要するに勘違いである。

文脈から切り取られた部分だけが表面化して、加害者と被害者という構図が固定化してしまったことによる齟齬。

すなわち、「どっちが先にやったか」論争である。

 

ようは、世間が「いじめか否か」を認定している。

当人同士の間では、実際には逆である事も多々ある。


子どもが好きな子の気をひこうとして、いたずらを仕掛けたら、相手からも周囲からも、いじめととらえられてしまうことがある。

 

いじめの最初のきっかけは、いじめられる側の人間の配慮の無さだったりする事も多い。

それはその段階では、当人同士の内面で起きている事が多く、表面化していないので、世間からは、いじめとは見なされない。

また、世間的に見た力関係の強い側がいじめられていても、世間は、いじめとは見なさない。


文脈から切り取られたワンシーンに遭遇した人が勘違いをして、冤罪になるという悲劇は、よくある。

一人で何でも出来てしまう器用な人は、人の手を借りずにある程度何でも出来てしまう。

こういう人は人助けを一人でやってしまいがちなので、負担が重すぎて身体を壊したり、冤罪に巻き込まれたりしやすい。

 

人間関係を大きく広い目で、全体を俯瞰して見守る者がいないと、文脈から離れた一部分だけから、その関係を判断されて、悲劇が起こる。

 

助ける者と、助けられる者とを二分する考えが強い。

 

現代は、一人一人が自分の役割に追われて他人に構っている暇がない人と、誰からも構ってもらえない暇な人という、両極端な人間が多い。

広い視野を持った俯瞰者も欠如している。

 

助ける側の役割を与えられた者は、「一生人助けする側」で、助けられる側の者は「一生他人から助けてもらいっぱなし」という考えが浸透しているふしがある。

 

また、助ける側の自覚がある者は、助けてやったという気持ちになる。

一方、助けられる側の自覚がある者は、助けてもらって当たり前という気持ちになる。

双方が、お互いに対して尊敬の念が全く無い者が多い。

 

いじめに関しても、いじめる側と、いじめられる側は逆転する事もあるのにも関わらず、一生その関係性は固定して変わらないという考えの人が多い。

 

いじめっこは、何らかの暴力の被害者であるという意識を持っているか、あるいは、無意識に被害を被っている。

社会や家庭などから、何らかの精神的、又は肉体的な暴力を受けている。

その仕返しの矛先が、暴君に対する直接的な反撃の場合もあれば、手近にいる自分より弱い者に向く場合もある。

 

いじめられやすい子は、実は多くの人を傷つけているという事に気付いていない事が多い。

自分が意図せず相手を傷つけているのだ。

例えば、相手への配慮の欠如した子が、相手の心を傷つけた事がきっかけで、いじめられるということも多い。

また、容姿にコンプレックスを持つ人は、美しい容姿を見せつけられる事自体を暴力と感じているので、美しい容姿の目立つ子をいじめる。

だから美男美女は、いじめられやすい。

いわゆる空気を読めないと言われるような子は、場の空気を乱している事に気が付いていないために、いじめられやすい。

空気を乱すことで良い空気感になることもあるが、その組織の多数派にとっては「悪」と見なされることが多い。

「KY」という悪口になるのは、このためである。

 

他人の顔色をうかがう事に気を取られ過ぎて、自分が本当にやりたい事がわからなくなってしまった人が多い現代社会では、適材適所がかなわない社会なので、向いていない職に就いている者が結構いる。

しかし、辞めさせる事が組織にとっても本人にとっても本当は一番の幸せであるにもかかわらず、企業は社員を簡単に解雇できない仕組みがあるので、合法的に辞めさせる事が出来ない。

そのため、いじめて辞めさせるしかなくなる。

こうして、組織にそぐわない人間を追い出そうとする時、いじめが起こる。

真の平等とは適材適所なのだが、平等、格差是正という言葉の誤認解釈による弊害で、各所でいじめが後を絶たない。

 

自分が誰かをいじめてしまったことを自覚したなら、自分は実は何らかの暴力の被害を受けている可能性があると気づく時である。

あるいは、いじめる対象者に過剰に関心があり、意思の疎通を試みようとして事故に遭ったと、気づく時でもある。

逆に自分がいじめられていると感じたら、無意識に相手を傷つけていたと気づく時である。

 

「いじめ」があると世の中は、表面的に暴力を振るった者を「裁く」ことばかりに気を取られて、本質を見失う。

結局は多数派の原理で裁かれる。

 

「本質は、裁く事ではない。」

 

「裁く」という事自体がまた、「暴力」になる。

 

暴力を避け、命を絶つ者を出さない事が最優先課題である。