ヒトは、待つことで大脳を発達させた。

ハンティングでは、待ち伏せをする。

釣りなどでは、わなを仕掛けて待つ。

農業では、種を植えて収穫を待つ。

 

野性動物は、飢えに耐えながら待たねばならない。

ここに「渇望」という感情が発露した。

期待に胸を膨らませ、待ちに待って失敗した時のダメージは大きい。

この「悔しさ」がヒトの大脳を刺激した。

 

料理は、複数のタスクを少しずつズラしながら同時進行させて、各食材の変化を適度に待ち、一番美味しい状態を作り出す。

待ち時間が長すぎても短すぎても、料理はまずくなる。

変化の見極めが、味の決め手となる。

 

複数のタスクを同時進行させるには、ハイレベルな技術力を要する。

 

まず前提として、基礎となる技術を習得する必要がある。

大脳を通さずに小脳レベルで自動的に出来るタスクを、いくつか身につけた上でないと、個々の小さいタスクを同時には実行出来ない。

その上で、物事の変化の仕方を知識や経験から知った上で、いくつかの仕掛けを始める時期、温度、大きさなどを調整し、全体の構造を俯瞰して順序を組み立て、最終形態へと導いていくのである。

 

この時、小さいタスクは完結しないままで、次のタスクへと移行しなければならない。

個々の小さいタスクは、大きい全体として完成した時にはじめて完結する。

 

遊びは、目標の完結を、前にも後にも自由にずらす事ができる能力を養う。

遊びの世界では、めでたしめでたしで終わらせるのか、まだまだ行けると感じて続行するのか、あるいは悔しいからリセットして、また最初から始めるのかは、個人の自由である。

自分勝手に好きなように解釈して、一番面白い所でやめる事が出来るのが、遊びの醍醐味である。

 

幼少期に遊びが必要なのは、この「自分が一番楽しいときの頂点を見極める能力」を養うのに必要不可欠だからである。

 

農作物や子を育てるのには、かなりの待ち時間を必要とする。

必要な養分と条件を与えて、育つまで、いろんな心配をして、手をかけ、あとは自然に任せる。

手間をかけすぎても、放置しすぎても、生き生きと育たない。

 

ヒトは、産業の発展で暇が出来、待ち時間を持て余すようになった。

人間ヒマになると、ろくなことを考えなくなる。

この「ろくでもない妄想」が文化を花開かせた。

暇つぶしが文化を育てた。

 

待ち焦がれる時間の過ごし方が人生を決める。

 

あー ひまだ YouTubeでも見よっかな