認知症は、社会の自動化が生み出した病である。
大脳を使わずに、皆で同じスピードで、速く動く事が自動化である。
車の運転では、一定のスピードで走るのが燃費がいいとされる。
「皆が同じスピードで動く」というルールを、100%守るという前提での整った条件下でなら、確かにエネルギー効率は良い。
自動化は、「障壁が100%無い」という前提では効率が良い。
しかし、生身の人間は、それぞれ動くスピードが違う。
また、交通ルールを守らない者もいるのが、現実の人間社会である。
「急がば回れ」という、ことわざがある。
早く目的地にたどり着く事を目的とした場合、ただやみくもにスピードを上げて事故を起こすよりも、障壁をうまくかわしながら、その都度、速度を変えて動いた方が、結局は早く目的地にたどり着くという事である。
「障壁がある」という前提で物事を考えた上で出来たのが、このことわざである。
扇風機の首振り機能は、まんべんなく皆を涼しくしてくれるが、いらないところにも多くのエネルギーを費やすため、無駄になるエネルギーが多い。
暑さの体感は人それぞれなので、風にあたりたくない人もいれば、強風にして欲しい人もいる。
人がウチワであおぐほうが、個人個人にあわせて風量を調節できるので、人のエネルギーを使わなければならないが、エネルギーの無駄が無い。
つまり、個人個人にあわせた風量を当てる事を目的とした場合、自動化は人力に比べてエネルギー効率が悪い。
健常者もやがては衰える。
記憶力、考えるスピードの衰えは、老化と共に誰にも訪れる。
人の衰えというものは、ある行動をとっている時に、部分的に感じられるようになる。
衰えは主観なので、他者から見て大した事が無いように見えても、本人はとても重大にとらえていたり、逆に他者から見てどう見ても重篤な状態でも、本人はさほど気にしていなかったりする。
そのちょっとだけ衰えた部分のみを助けてもらえれば、その人は自分の意志で自由に動ける。
手助けは、ほんのちょっとだけでいいのである。
また、ハンディを持った人も、違う種類のハンディを持った人を助けることが出来る。
一人の人間を一人でおんぶするのは大変だが、複数で運べば少ない力で運ぶことが出来る。
現代社会では、人が何か障害を抱えると、その人に何もさせない事が多い。
出来る者が、全てを肩代わりして、ハンディのある人に何もさせない。
出来る者がやった方が処理は早く終わるが、やりたいと思っている人間の行動を奪う事になる。
自動化された社会では、スピードについていけない者は厄介な存在でしかない。
忙しい街中では、立ち止まる事すら許されない。
ハンディの種類は十人十色だが、どの種類の人間も、じっぱひとからげに箱に押し込めて、一律に行動を制限して何もさせないのが現代社会である。
廃用性症候群と言うように、生物の身体は使わない部分は、どんどん使えなくなり、やがて機能を失い、その機能を担う部分の細胞は死滅する。
生物は進化の過程で、新たな機能が増えたり、自然淘汰されたりしながら、変異していく。
大脳は、人間社会の中で役割を持つ事で発達するため、人は社会での役割を無くすと大脳を使わなくなり、当然、脳細胞の数も減る。
役割を奪われた人は、廃人である。
いわば、人間社会の廃用性症候群が、認知症と呼ばれる状態である。
現代の自動化社会は、ゆっくり動きたい人間を不要な人間として社会の歯車から排除する。
しかし、ヒトは自分の意志で動き、人の役に立ちたい生き物である。
老人や障害者と呼ばれる人々は、健常者と呼ばれる人よりは動きは遅いが、自分で動いて人の役に立ちたいと思っている。
こういう動きたい人間のエネルギーを無駄にして、廃人にしてしまっているのが、自動化社会である。
多様性社会とは、言い換えると、「かたわ」の集まりである。
大なり小なり、何らかの障害を抱えた者同士が、補い合い、助け合う事で、世界は成り立っている。
子の役割は、親に心配をかける事である。
親の役割は、子の心配をする事である。
人は、大脳を使わずに「心を配る」事をやめると、生命力を無駄にし、廃棄物と化す。