愛の原点は、自己愛である。
全ての生き物は、自分を愛している。
自分に取り込みたいと思うモノを好きと認識する。
人間の場合、食べ物の嗜好は、母体内にいる時から、へその緒を通して始まっており、幼少期から身体の基礎が作られる過程での、味覚体験と様々な事象との結びつきによって、好みが決まっていく。
人間の好きなタイプも、食べ物の嗜好と一緒で、この時期に基本的な好みが出来上がっていく。
野生動物は、食べたい物を欲しい以上には、摂取しない。
つまり、お腹一杯になったら食べない。
自分に必要な分だけ摂れば、他者の分まで欲しいとは思わない。
あいさつの原点は性行為である。
お互いが好きであることを確認するコミュニケーションである。
類人猿のボノボは、性器を使ってコミュニケーションをする。
大脳が発達したヒトでは、ハグや握手、言葉での挨拶へと、皮膚の接触がだんだんと減っていった。
「俺はお前が好きだから、お前も俺を好きになれ」という論理の押し付けが、暴力である。
だから、金が物を言う社会では、売春が成立する。
人の好き嫌いは、自然に湧き起こるもので、大脳で制御できるものではない。
しかし、自制心のある人、規律を重んじる真面目な人ほど、愛してはいけない人を好きになる事に罪の意識を感じてしまう。
好きなモノを何が何でも手に入れようとして努力するガッツのある人間は、進化するし、魅力的な人間に育ち、結果としてモテる。
たとえ手に入れられなくても、努力の過程で鍛えられ、また次のモノにチャレンジする力が蓄えられる。
手に入らない愛が、美しい芸術を生む。
人を愛する事は、罪ではない。
愛するモノを独り占めしようとして、他者を傷つける事が罪である。
生き物は、今、摂取しておかないと、次にいつまた摂取できるか分からないという切羽詰まった状態の時、たくさん蓄えようとして、必要以上に摂取しようとする。
現代人は、精神的にこの飢餓状態に陥っている。
財産を一個人単位で所有する社会だからである。
共有財産を持てば持つほど、自分も他者も多くの財産を持つ事が出来る。
共有財産であれば、いつでも摂取できるという安心感が持てる。
日本には古くから、「魂」は事物に「宿る」という考え方がある。
愛着のある事物は、自分自身の財産であると同時に、多くの他者にとっても財産であり、「宿を借りる」ように「借りている」だけであって、自分だけが占有出来るものではない。
「人」という事に関しても、「人という姿を借りている」という考え方である。
自分という人間は、自分だけのモノではなく、みんなのモノなのである。
今、ここに湧き出た愛を育むことが、エネルギーを生む。
みんなが、たくさんの人を愛すれば愛するほど、エネルギーが生まれる。
人工知能や人工生命など、完璧な生命とは何かの研究が盛んに行われている。
しかし、今のところ、愛による核融合以上に完璧な生命体が生まれるのは、まだまだ先の未来のようだ。