幸せとは、報酬として得る事物ではなく、技術ではないか。

 

人間は日々、快と不快を繰り返して一瞬一瞬を生きているが、この快や不快の感覚のとらえ方と記憶の仕方が個性である。

不快を感じやすく記憶に残しやすいとネガティブと言われ、快を感じやすく記憶に残しやすいとポジティブと言われる。

 

感覚器官をひらき、身体を動かして、五感をフルに働かせ、日常生活のちょっとしたことにも喜びを感じやすいように努力をしている人は、喜びの感度が良くなる。そして、体験が増え、記憶にも残りやすくなる。

そもそも喜びの感度が悪いと感じることがないので、記憶に残しようがない。

 

人は、幸せを感じている人と幸せを共有している時、多幸感を得る。

この多幸感の記憶を後で何度も思い返しているうちに、よりその記憶が強化される。実際にその時感じていた感覚を上回る記憶になったりもする。逆に思い返さないと、忘れていく。

 

幸せの記憶を多く持っている人は、快の依存性により、更に新たな幸せを生み出したくなる。そのために、また新たな幸せの場や時間を作り出すために努力する。

 

この快を記憶に残す日々のトレーニングと、多幸感を長期記憶に保存し、また次なる幸せを生み出す技が、幸せの技術ではないか。

 

金を集める技術力の高い人が金持ちであるが、必ずしも幸福とは限らない。

 

高給取りとは、その人の仕事の技術力という側面に対して高い報酬が得られる人であり、それがその人全体の人間の価値を表すものではない。

商品でも人材でも、そのものの価値と価格は必ずしも一致しない。その商品が出来るにあったってのコストや顧客のニーズ、社会情勢によって価格や給与は上下する。

 

つまり、幸せに実体はない。カネで買うものではないし、与えられたご褒美でもない。

自ら技術力を磨き能力をつけ、作り出すことで、幸せの達人となる。